東オホーツクシーニックバイウェイ
東オホーツクシーニックバイウェイのTOPページへ東オホーツクシーニックマップへ東オホーツクシーニックポストへ東オホーツクシーニックバイウェイとはお問合せフォーム
東オホーツク1市5町をシーニックバイウェイというツーリズムスタイルでご紹介。最新情報は、シーニックマップよりご覧下さい!

東オホーツクシーニックバイウェイ 「風を感じて走る道」
オホーツク 網走市シーニックバイウェイは、英語で「景色」を意味するシーン(SCENE)と、「わき道」を意味するバイウェイ(BYWAY)の組み合わせ。直訳すると「景色のいいわき道」ですが、それは一面に過ぎません。シーニックバイウェイ北海道は、「自分たちの地域を、自らの意識と行動で、より魅力的にすること」でその柱は、「美しい景観づくり」、「活力ある地域づくり」、「魅力ある観光・空間づくり」 の3つです。自分たちが住んでいる地域を、「もっと良くしたい」「もっと知ってもらいたい」「来た人に好きになって欲しい」・・・そんな想いがシーニックバイウェイ北海道の原点です。最新情報は、シーニック・マップよりご覧下さい。
現在、このサイトでは5本のブログで東オホーツクのフレッシュな情報をお伝えしています。各ブログは、東オホーツクシーニックバイウェイで管理し、エリアを代表するシーニックマン達により運営されています。各シーニックマンのブログは、マップページより地図と連動してご覧いただけます。また、次のリンクより各ブログのホームへジャンプすることが出来ます。シーニックマン1号2号3号(オホーツク百の話)4号シーニック事務局
網走市 「活力あるオホーツクの都市」
オホーツク 網走市 網走は北海道を代表する観光地。網走刑務所の所在地というイメージが定着している。たしかに1890年(明治23)に、網走囚人宿泊所が設置され、翌24年に中央道路(網走ー旭川間)が開かれるとともに、内陸への交通、屯田兵の入植などが増加し、それにともない発展した町である。刑務所の歴史を「博物館網走監獄」(大曲)が、展示し、網走観光最大の入館者数を記録しているが、未開の地を受刑者が切り拓いた歴史は、否応なく学ばなくてはならない。
しかし、網走を訪れた人々が必ず口にするのは、想像以上の明るい街であり、大自然の景観のすばらしさである。これはオホーツク海と網走湾を取り囲むような、世界自然遺産の知床連峰の壮大な眺めと、五つの湖沼を持つ海・山・湖の自然と、豊富な食材という恵まれた土地であるからだ。年間観光客200万人、特に冬の流氷観光の拠点としての網走は、我が国屈指の観光地であると言っていい。
網走はおよそ150年前の安政6年ころから漁業のアバシリ場所となり、アバシリ村、網走村、北見町と変遷し、1947年(昭和22)に市制を施行して網走市になった。人口は昭和55年の44、777人をピークにやや減少し、現在40、000人台となっている。麦類、馬鈴薯などの農産物、サケ、ホタテなどの海産物を主とした産業に、観光を中心にした「活力あるオホーツクの都市」を掲げて街づくりに向かっている。
美幌町 天下の絶景 美幌峠」
オホーツク 美幌町 美幌町は網走支庁の中央部、北見市と網走市の中間あたりに位置し、南には釧路へと続く美幌峠があり、多くの道路が町内で交差することから交通の要所としても栄えてきた。
町名はアイヌ語の「ピ・ポロ」に由来し「水が多く・大いなる場所」という意味がある。その名の通り町内には大小60本もの川が流れ、中でも屈斜路湖の外輪山を水源とする美幌川は、平成15年に清流日本一に指定されたほどの水質を誇る川だ。
人口約2万2千人の美幌町の主幹産業は農業。なだらかな起伏が続く盆地の地形と、町の中を流れる美幌川、網走川の両側に広がる肥沃な土地を有する大地からはじゃがいも、小麦、ビートなどが主要な作物として生産されている。
大空町 花と音楽のまち&ノンキーランド
オホーツク 大空町 大空町は2006年(平成18年)3月31日、女満別町と東藻琴村が合併してできた新しい町である。この二つの街はもともとは網走町に属していたが、女満別は大正10年、東藻琴は昭和22年にそれぞれ分村独立した。その分村した町同士の合併ということになる。
空港のある女満別はオホーツクの空の玄関口として知られている。年間100万人の利用客がある女満別空港は、2,500メートルに滑走路が伸び、ターミナルビルも拡張されるなど、大型機の利用と海外便の運航に期待が持たれる。道内でも空の輸送の拠点としての重要度は増している。また、朝日ケ丘展望台やメルヘンの丘など、景観の美しさを積極的に観光資源に活用している。
東藻琴は藻琴山からの台地が広がる地域で、畑作と畜産が中心の田園地帯である。その牧歌的な風景をアピールして、「ノンキーランド」の愛称を村の名に付けた。生産される牛乳からチーズなど、より付加価値の高い二次加工品を製造する取り組みも行われている。
合併によって町は南北に細長く拡大し、藻琴山から網走湖までの広い行政区域となった。合併後の人口は約8,600人。「大空と大地の中で、ふれあいと語らいで創る、感動のまち」を将来像に掲げた新しい町づくりが始まった。

小清水町 ゆりの花と熱気球のあがる町
オホーツク 小清水町 小清水町は一口に言って、農業の町である。総人口約6,000人のうち約3分の1が農業に従事している。ほぼ長方形の町は、国有林におおわれた南部の山岳地帯から北に向かってゆっくりと傾斜しオホーツク海に達する。この波状傾斜地の地味が良いと言われ、広大な畑作地帯を形成している。
作付けの作物は麦類、馬鈴薯、ビートが主だが付加価値の高い野菜や花の栽培も増えている。気象もオホーツク海と内陸からの影響を受ける2つの様相があり、時として山岳からの強い風を受ける風害もある。
近年は農業の他に、観光事業も活発に行われ、小清水原生花園をはじめ、リリーパーク、藻琴山のハイランド小清水725など年間の観光客の入り込みが約80万人にまで増加している。また、オホーツクの村などに見られる、ナショナルトラスト運動や町民の畑作と連動した農業体験など体験型観光への取り組みも盛んになっている。
2005年にはトーフツ湖のラムサール条約締結が決まり、自然を楽しむという視点から、ますます重要な観光のエリアとして期待されている。
小清水は、もとは斜里村の一部だったが、1919年(大正8)に小清水村として分村、1953年(昭和28)に小清水町に町制施行となった。この辺り一帯は明治、大正時代には止別原野と呼ばれ、林業が盛んだった。明治24年に釧路~網走の道路が開かれ、小清水に駅逓が設置されて現在の本町を中心に市街地が開かれるようになった。

清里町 花と緑と交流のまち
オホーツク 清里町 清里町は世界遺産に指定された知床半島の付け根に位置し、日本百名山のひとつである斜里岳や摩周湖などに囲まれ、町内を清流・斜里川が流れる自然豊かな人口約五千人の街である。
1943年(昭和18)に斜里町と小清水町の一部から分かれて開村した上斜里村が、1955年(昭和30)の町制の施行によって清里町となった。公募により決定された町名には「清らかな里」という意味と、小清水町と斜里町から一文字ずつを譲り受け、二つの街から分村して街が誕生した歴史が刻み込まれている。
この街の主幹産業は農業でじゃがいも、麦、ビートなどを栽培する畑作が中心。一戸の農家が広大な畑を耕作する大規模農業が特徴だ。反面、長きに渡って清里町の経済を支えてきた林業は木材の需要の低下、外材との価格差などから生産活動が低迷する傾向にある。
斜里町 世界自然遺産・知床のまち
オホーツク 斜里町 斜里町は、人口14,000人の小さな町である。シャリと言う名前もアイヌ語の「シャリsari 葦原」の意味から来ている。現在広がっている広大な斜里平野も大昔は海だったという。江戸時代から斜里は注目されていた地域であることが様々な文献に残されている。その注目された理由は、日本の近代化に欠かせない資源に寄るところが大きかった。
明治、大正時代は木材景気。木材がなくなった平野では澱粉の生産、昭和になると知床半島の硫黄の産出。この街の発展は日本の近代化に沿っての発展であったと思う。
戦後の高度経済成長の恩恵として斜里からウトロの道路が開通した頃から斜里の大きな産業に加わることとなる「観光」がクローズアップされた。昭和35年(1960)に知床を舞台とした映画「地の涯に生きる者」のヒットから一躍全国的に有名になり、知床ブームが始まった。大挙して押し寄せる観光客。さらに知床が国立公園に指定され、「知床旅情」がヒットして知床の名前は全国区になっていった。年間170万人の観光客を受け入れるのは斜里町ウトロである。ウトロの人口は斜里町全体の一割。最近では「知床」と言う名前の方が先行する事も多く、駅名も「しれとこ斜里駅」と変更をした。
2005年(平成17)7月に世界自然遺産に知床が指定されてからはさらに注目が高まり、さらに多くの人が訪れる地域となっている。

ホーム地図シーニックポストシーニックバイウェイとは組織・会員お問合せプライバシーポリシーこのページのTOPへ

Copyright © East Okhotsk Scenic Byway.All Rights Reserved.