2012年03月05日

幻の根北線と越川橋梁(根北峠)

斜里から標津方面に向かって国道244号線を走っていると、やがて道はゆるやかに根北峠へと上り始め、道路を横切る形で建っている巨大なコンクリートの固まりが目に入っている。

越川橋梁(正式名称は「第一幾品川橋梁」)と呼ばれるコンクリートの建造物は、一度もその上を列車が通ることのなかった鉄道橋だ。

越川橋梁は1937年(昭和12)に斜里と標津を結ぶ予定で着工された根北線の一部である。

しかし、根北線の工事は太平洋戦争によって中断。1957年になって、ようやく斜里と越川の間12.8キロを結ぶ越川線が開通したが、過疎地を通る短距離路線のため採算が取れず、開業からわずか13年後の1970年に廃線となった。 

幻の根北線のために建設された越川橋梁は1939年に完成。長さ147メートル、高さが21.7メートルもある巨大な十連アーチ型のコンクリート橋である。

1973年に国道244号線の拡幅工事によって橋脚の2本が撤去されたが、70年近く前に作られたコンクリートの建造物は、今も道路脇で幾重にも連なる美しいアーチを見せている。 

この橋脚の構造上の大きな特徴は、鉄筋を使用せず、コンクリートのみで建造されたこと。

戦時中の物資不足の時代ゆえに鉄筋を使いたくても使えなかったので、このような工法を選んだといわれているが、その代わりに竹を使ったのではないかとする説もある。 

越川橋脚は北海道の開拓時代の暗い記憶も背負っている。

この橋脚は「タコ」と呼ばれた労働者が非人道的な過酷な労働環境の中で完成させた建造物で、記録によるとこの工事による死者は10名以上。

橋脚のコンクリートの中には労働者が人柱として埋められているという悲話もある。 

1998年に越川橋梁は国の登録有形文化財に指定された。戦時中の建築技術の高さを伝える北海道最大のコンクリート鉄道橋は、同時に過酷な労働の中でこの橋脚を完成させた人々の労苦を伝える歴史な遺産として、今後も保存されていくことが決まったのである。(く)


2012年02月27日

コミュニティホールに変身する議場

大空町町議会の議場は、全国から関係者の見学が絶えないユニークな構造である。

なんと議場が、ある時にはコミュニティホールに変身するという仕掛けなのだ。

議場のある役場庁舎は1985年(昭和60)に建てられたものだが、助役を中心にしたスタッフのあいだで「1年のうち議会が開かれるのは2週間程度、それ以外の期間、何の利用もしないのはもったいない」という発想から生まれた。

議場はかつては自治会長の会議や町職員の婚礼にも使われたことがある。そういうコミュニティ施設として活用された。

町長にその話をすると、北欧に視察に行ったときに、自治体の庁舎がそういう機能を持っている町を見た、とすぐさま賛同した。

町民が議場を多目的に活用することによって、これまで近寄りがたい場所だったところに親しみを感じてくれるのではないか。

出来上がった議場は、一見どこの自治体にもある風景であるが、ボタン操作で30分ほどで小ホールに変身する。議長席の床が油圧装置で地下に沈み床全体が横にスライドする。

その後、ステーシ用の床がせり上がってくる。18ある議員席も同じように床とともに地下へ。理事者席も床パネルに乗せて地下へ移動する。この段階で座席なしのフラットな自由度の高いホールになる。

さて、次に座席ありの小ホールにするには、議場後部の壁を開いて5段の固定席を中央に出す。ロールバックチェアスタンドと呼ばれるもので、もちろん電動式で背もたれが起きあがる。

これが85席、ほかに同じような移動席が76席、もともとある傍聴席が34席、合計195席のホールに変身する。すべてが全自動というわけにはいかないが、数人の係員で十分対応ができる。

ここではコンサート、講演会などこれまで住民主催の催しが何度も行われている。1988年には「北海道まちづくり百選」に入選したこの施設を「議事堂文化ホール」と名付けている。(ひ)

 <町議会議場>

 <コミュニティホールで開かれたコンサート>

<議事堂文化ホールの構造図>


2012年02月22日

マコイの牧場に義経が陣地を作った・・・話

国道334号が知床半島の海岸線を走りだしてしばらくたったところ、少し開けた地形の場所に小さな牧場がある。

ホルスタインを放牧している風景は、知床とは違った北海動的な風景。

しかし、春先などは放牧しているはずのホルスタインの姿よりも、褐色のエゾシカの数の方が多いこともある。

時々、エゾシカの放牧場と思う人がいるのも頷ける。

このあたりをマコイ(真鯉)(アイヌ語でマクオイ・奥 深い所)と言い、昭和44年まで学校もあった地域です。

学校のあったところが、ちょうど牧場を経営しているあたり。現在のような道路はもちろんなく、高台の方で農業をしていた家の子供たちは急峻な坂を下りて、学校に通っていたと言う。

さて、このマコイ地区からオシンコシン(オシュンクウシ・そこにエゾマツの群生するところ)までの間には、源義経の話が残っている。

義経といえば、全国各地にその足跡にまつわる話が残っていて、大きな話では彼は蒙古に渡りジンギスカンだったとか。

北海道各地にもその話は至る所にあるが、この知床にもその話が残っていることに驚く。

オシンコシンの近くに義経が上陸した話。

義経が野宿をした場所。

義経の船が帆を乾かした場所、など、アイヌ語の地名とともに、随所にそのような話が多い。

マコイ地区の現在は牧場になっている場所では、義経は合戦をした際に幕を張ったところ、との話が残っている。

誰と合戦をしたのだろうか?幕、すなわちここマコイに義経は陣地を作ったという。

その話の真意はさておき、アイヌの人たちの話の中に登場する義経の伝説。

知床半島のアイヌの暮らしの中にも和人との軋轢や争いが生じてきた時期。

都を追われた義経の話が当時のアイヌの人たちにどのように広まったのか、「奥、深い所」と言われる知床半島のマコイ地区での話に、義経伝説の深さと、アイヌの人たちが受けてきたであろう理不尽な扱いの歴史を感じる。(さ)


2012年02月14日

住所地名のアイヌ語とその意味と誇り

知床へ向かって走るドライブ道路。その道路沿いにはいくつかの町や集落が点在する。

最近は市町村合併で新しい町の名前や市の名前が生まれている昨今、いろいろな思いをこめて付けられる新しい名前の住所が誕生している。

知床、斜里町では現在はまだ合併の予定はないが、今回の合併で、地域の名前について考える機会が多かった。 

知床の地名は、自然景観とその環境、そして音が魅力だ。

なぜなら、その地名、住所のほとんどがアイヌの人たちが付けた名前に由来するからだ。

斜里から知床まで、住所として登録されているいくつかの地名を紹介しよう。

住所と区切ったのは、地名や河川名を入れるとここではとても紹介しきれないから。

それほど、知床半島にはたくさんのアイヌ語の地名が残っている。

  • 斜里(シャリ)サル 葦原 この意味からも斜里平野、斜里川の河口付近には葦が茂っていたことが分かる。
  • 以久科(イクシナ)エクシナペッ そこを突き抜けている川現在も残る幾品川沿いに広がった集落
  •  朱円(シュエン)シュマトカリ 石(浜)の手前、円は斜里の開拓でも歴史が古く、道路沿いの樹木防風林や学校敷地内の桜は名所になっている
  •  真鯉(マコイ)マクオイ 奥深いところ、現在は酪農を行っている牧場であるが、別ページにも掲載されているように義経の伝説もあるところ
  •  ウトロ(宇登呂)ウトルチクシ その間を我々が通る、以前は漢字が使われていましたが、現在は学校名も含めてカタカナ表記になりました
  •  岩尾別(イワオベツ)イワゥペッ 硫黄川、戦前は「岩宇別」と書かれていた

最近ではあまりアイヌ語の地名は使われなくなったが、ここ知床ではまだまだ、地元の人たちもアイヌ語の地名を使っている。

もう、わざわざ和名にする必要もここにはない。

そんな地名がたくさん残っていることが知床の誇りでもある。(さ)


東オホーツク百の話 at 21:45 | PermalinkComments( 0 )TrackBack( 0 )

2012年02月06日

練習機「白菊」不時着の歴史

1945年(昭和20)7月20日午前10頃、美幌海軍航空隊女満別飛行場を離陸した「15試機練」という単発機が、エトロフ、クナシリに向かって原生花園から止別海岸上空をすぎていた。

これは女満別基地の練習機で「白菊」という機名であった。

機長は山本海軍少佐、操縦員は佐藤欣郎海軍中尉、偵察員が海軍2等兵曹大津昭だった。 

機は知床連峰を越える態勢で上昇を始めたとき、エンジンが不調になったため、旋回して基地に戻る態勢をとった。

しかし、高度は下がりヨシ原の湿地に不時着した。機体は沼に機首をつっこみ、逆立ちになって腹を見せていた。

大津兵曹は機体を抜け出し泥の中を土手の上にはい出た。そこは現在の斜里町大栄(大栄小学校付近)の国道から海岸方向への場所だった。 

大津兵曹は通りかかった女性の自転車の後ろに乗せてもらい国道に出て、そこから農家の馬車で斜里の警察へたどり着いたという。

結局、山本、佐藤の上官二人は現地で死亡、大津兵曹だけが生きのびたのである。

そのため、この不時着事故の経過だけが、後に学徒兵の佐藤中尉を書いた記録として残っている。

美幌海軍航空隊の美幌、女満別飛行場から飛び立った飛行機の事故は、当時目撃した住民から伝えられている。 

大栄の湿地には、アルコール実験の飛行機も不時着した。

美幌美禽の山に戦闘機墜落。美幌報徳の畑に爆撃機が不時着。

呼人の畑地に試験飛行中の機が不時着。

斜里日の出の海岸に練習機墜落。網走湖に練習機墜落。

このほか5件の事故が伝えられているが、いずれも風聞である。

誰々が死亡したのか。どれだけの兵士が命を失ったのか、当時の軍事機密、戦後の資料紛失などで今なお闇のなかである。 

「白菊」の搭乗員だった大津昭さんは、昭和60年頃に本州からやってきて、ひっそりと大栄地区を訪れた。

整然としたビート畑に変わった現地で、ひとり立ちつくしていたという。

太平洋戦争敗戦近い頃、劣悪な条件下で戦い、死んでいかなければならなかった若者たちが、東オホーツクにもいたのである。(き)


2012年01月30日

知床の名所・もう一つの名前と時代

知床の名所として人気の高い場所の一つに「フレペの滝」がある。

切り立った岩から水が海へ流れ落ちる。岩肌に幾筋も流れる様子をたとえて「乙女の涙」とも呼ばれている。

地元、ウトロではこちらの名前で呼ばれる方が多いかも知れない。

さて、この名前、いつからこのように呼ばれることになったのだろうか?

地元の人に聞いてみると昭和50年代の知床ブームにカニ族と呼ばれる人たちが地元のユースホステルを利用して、たくさんの名所を訪れ、あるいは名所を作ってきた歴史がある。 

昭和38年にオープンした知床ユースホステルなど、知床には3カ所のユースホステルがあった。(現在は岩尾別ユースホステルのみ)そこを訪れていた宿泊客(ホステラー)がフレペの滝を「乙女の涙」と呼び始めたらしい。 

乙女の涙の滝の近くには、もう一つ彼らの名付けた滝がある。

危険だからと今はオープンにはされていないが、「男の涙」と呼ばれる滝である。

地元の人は、この滝のことを「カドワキの沢」と呼ばれていたことを知っている人が多い。

昔、この土地に入植していた人の名前が沢の名前になっている。カドワキさんはこの沢で水くみをしていたという。

近所の人も水くみに行っていたという。 

隣のフレペの滝を「乙女の涙」と呼び、この沢を「男の涙」と呼んだ当時のホステラー。

他にも、たくさんの場所に、様々な名前が付けられて、そこを訪れることを楽しんでいたのだろう。 

現在では「フレペの滝(乙女の涙)」と呼ばれるまでに至った、この名前の時代の背景が面白い。

新しい取り組みとしての呼び名になっているエコツーリズムも、実はこの時代の旅の形が、まさしくエコツーリズムだったのではないかと思う。

現在のように大勢が列を作って歩くのではない旅の原点が、こうした名前を付けながら、仲間と歩きまわった人々の時代に残されている。

知床が大好きで、ユースホステルに集った人たちが付けた知床の名所。

世界自然遺産に登録された知床を見ながら彼らは今頃、ほろ苦くもくすぐったい思いをしているかも知れない。(さ)


2012年01月25日

我が町に「君の名は」がやってきた

<「君の名は」の映画ポスターまだテレビがない時代に映画は国民的娯楽であった>

サンフランシスコ条約が調印され、日本がGHQの占領下から独立国として本格的に戦後復興へと歩み始めた1951年、あるラジオドラマが爆発的な人気を得ていた。

この年の4月から毎週木曜日に放送が始まったNHKの連続ラジオドラマ「君の名は」である。  

「忘却とは忘れ去ることなり、忘れ得ずして忘却を誓う心の悲しさよ」というナレーションで始まる、せつない悲恋の世界を描いた「君の名は」は、放送中に銭湯の女湯から人がいなかったという逸話を残すほどの視聴率を上げた。  

二年間の放送が終了すると、松竹は「この熱が冷めぬうちに」と「君の名を」をすかさず映画化。

ヒロインの氏家真知子役に岸恵子、恋人の後宮春樹役に佐田啓二を抜擢し、第一部が全国で大ヒットする中、続編である第二部のロケが美幌町で敢行された。   

1953年9月27日、主演の岸恵子、佐田啓二を含むロケ隊総勢40名が最終列車で美幌駅に到着した。

一行を待ち受けていたのは、夜の美幌駅前を埋め尽くす歓迎の人並みだった。

ロケ隊がホームに降り立つと、待ちかねた群集は半ばパニック状態になり、岸恵子と佐田啓二は駅の裏口から脱出。

宿舎である旅館に向かうと、そこにも千人を越える群集が押し寄せていた。

行き場を失くした2人は町長公宅に一時退避し、この難から逃れた。  

いきなり美幌町民の手荒い歓迎を受けた「君の名は」のロケ隊だが、翌日から始まった約一週間にわたる美幌ロケは天候にも恵まれ、紅葉に包まれた美幌峠、美幌高校のポプラ並木などをバックにして順調に撮影が進んだ。  

映画「君の名は」は1954年に公開された第三部で完結し、その後に総集編も製作されるほどの大ヒットになった。

美幌峠も「君の名は」によって日本全国知れ渡る景勝地となり、映画公開の翌年の美幌町への観光客の入れ込み数は前年比の三倍近くにまで急増したという。(く)


2012年01月17日

斜里平野に残る防風林は原生林

<山と畑と防風林が斜里の特徴>

斜里平野を一望できる「深呼吸の丘」から見渡すと斜里岳のすそ野の広さ、オホーツク海、そして防風林によって区分けされた幾何学模様がこの景色の大きな魅力となっている。

北海道の北海道らしい風景を想像したとき、この防風林は欠かせないポイントである。

農家の人たちが畑を風から守るために、あるいは境界のためにカラマツやポプラ、シラカバを植えて育ててきた。

しかし、斜里平野ではかつて、農地開拓の人たちが入植する前に、この斜里平野を覆っていた原生林を帯状に残して防風林として利用している部分が多い。

当然、幅は広い。所々は道路で切断されている。

この防風林は、個人の農地ではなく管理するのは林野庁。つまり国有林なのである。

その防風林には、季節になるとオオバナノエンレイソウやオオウバユリと言った広い畑作地帯では見ることの少なくなった植物も健全に残っている。

もちろん、樹木の種類も豊富で美しい。小さな動物にとっても貴重な空間である。

斜里町の農業施設でもある「みどり工房しゃり」はこの防風林を活かしてキャンプ場を設置している。広い芝生と、様々な樹木の防風林の組み合わせがすばらしく、さらにはその防風林の中を散策できる木道も設置されている。

この防風林には湿地もあり、一歩中へはいるとかつての「森」が広がるのだ。とても短い散策道路ではあるけれど多様な樹木の木漏れ日と葉っぱの音が心地よい。

北海道には「里山」の歴史は少ない。残念ながら、農地開拓の事業の中で切り開かれて森は消えていった。

人の営みと隣接する森が少ないが、斜里の防風林はまさに、里山の役割を果たしていると思う。住んでいる人にとっては当たり前の環境なのだ。

もう一度、斜里平野を俯瞰してほしい。

パッチワークのように広がる平野の中にあって、層の厚い緑の帯をたどれば、斜里岳のすそ野からオホーツク海をつないでいる。

こんなに立派な防風林がここにはあることをあらためて自慢したい。(さ)


2012年01月11日

藻琴山の名水、二ヶ所の銀嶺水(小清水峠)

阿寒国立公園内にそびえ立つ標高千メートルの藻琴山は、なだらかの山容を持ち、登山の対象としても親しまれている山である。

さらに、この山からの湧水は麓へと豊富に湧き出し、網走市や大空町の水道水の水源としても利用されている。

そんな藻琴山の八合目あたりで、ひっそりと湧き出す名水が銀嶺水である。

大空町(東藻琴村市街)から道道102号線を小清水峠、川湯方面に向かうと、やがて上り坂の峠道が始まる。

しばらく走ると左手に斜里岳の美しい姿が見渡せるパーキングエリアが現れ、その向かいに「藻琴山林道」と書かれた標識がある。

ここが銀嶺水へと続く林道の入り口だ。

林道に入るとすぐにエゾシカの侵入を防ぐゲートがあるが、鍵はかかっていない。

この手でゲートを開け、銀嶺水の湧き出る八合目を目指す。だたし、通過した後は必ずゲートを閉めるのを忘れないようにしてほしい。

林道を約3キロ走ると、若干の駐車スペースのある藻琴山八合目に着く。

ここから頂上までは徒歩で約20分。実はこの林道、藻琴山登山の最短ルートになるが、あまりにも登山道が短すぎるために利用する人が少ない。

駐車スペースの奥にある階段を下ると、山小屋「銀嶺山荘」があり、その手前の水飲み場が銀嶺水だ。

重ねられた岩の間からあふれ出る水は冷涼にして美味。山奥で湧き出る銀嶺水だが、一度は訪ねる価値のある東オホーツクの名水スポットだ。

実はこの名水をもっと手軽に味わえる場所がある。芝桜で有名な藻琴山温泉芝桜公園の中を散策すると、銀嶺水と書かれた水飲み場が見つかる。

こちらの水源はどうやら水道水らしいが、最初に書いたように大空町の水源地は藻琴山の湧水地。つまり、水源はどちらの銀嶺水も同じだ。

口に含んでみると、塩素臭さもなく、銀嶺水が手軽に楽しめる場所としておすすめできる。


2012年01月06日

濤沸湖で南極越冬訓練が行われた

原生花園と白鳥飛来地として有名な濤沸湖が、南極ブームに沸いたのは、50年も前の1956年(昭和31)の冬のことだった。

氷結した濤沸湖の氷上で、南極観測隊20人が3週間耐寒訓練を行ったのを、見物に出かけた人が7万人もいたというのだ。

当時網走市の人口が3万人だから、他町村からの見物人も多かったのだろう。

日本が初めて南極観測に参加したのは、昭和31年秋だが、これを控えて濤沸湖を南極のプリンス・ハラルドに見立てて、機材の運搬、設営、雪上車、飛行機のテスト、観測訓練、スキー訓練などを行っていた。

観測隊の強化合宿だった。耐寒だけなら道内の内陸地の方が適地だが、広い氷上と流氷のオホーツク海がそばにあることから選ばれたのだ。 

1月25日から始まった訓練に当たって、網走市では訓練後援会をつくり、歓迎アーチ、歓迎幕「歓迎・南極探検隊総合訓練」のポスターづくりをするやら、出迎え、物品の買い入れ、馬橇の雇い入れなどの世話をし、現地北浜では協力会を作るなどして、網走市上げての協力態勢をとった。

濤沸湖上に宿舎、観測所、発電所、トイレ、無線アンテナなどが見る間にたち並ぶ。

湖上をトラック、ハイヤー、馬橇などが走り回る。見物人が群れをなすというにぎわいだった。

当時濤沸湖対岸の農村では冬は馬橇で湖上を行き来していたのだが、その馬橇までもが寄り道して見学する一大観光地に変わってしまった。

ところが、南極の条件や気象にいちばん近いとして選ばれた濤沸湖だったが、この年なんと暖冬だったのだ。

流氷の到来も遅れ、毎日おだやかな日が続き、天気が良すぎて観測器械の耐寒テストはできず、防寒服の試作も汗をかくばかりの有様だった。

2月10日に訓練終了。観測隊は15日には網走を離れた。

この間網走市内では永田観測隊長らの後援会を開催したり、市長主催のお別れパーティをするなど、期間中はにぎわった。

観測隊にとっては訓練結果はほどほどだったらしい。

だいたい、南極探検なのか、南極観測なのか新聞報道でも違いがあったほどで、最初の南極行きということで日本中が沸いたという時代だった。

網走市民にとっても大事件で、当時の有末市長は「観光都市として発展するために、大きな宣伝になり網走に新生面を開く糸口になった」と感謝を述べている。

網走市で最初で最大の文化的行事と報道された耐寒訓練が、すでに市民に忘れられて久しい。

冬の気象もおだやかで、温暖化はますます進んでいる。(き)