2012年01月06日

濤沸湖で南極越冬訓練が行われた

原生花園と白鳥飛来地として有名な濤沸湖が、南極ブームに沸いたのは、50年も前の1956年(昭和31)の冬のことだった。

氷結した濤沸湖の氷上で、南極観測隊20人が3週間耐寒訓練を行ったのを、見物に出かけた人が7万人もいたというのだ。

当時網走市の人口が3万人だから、他町村からの見物人も多かったのだろう。

日本が初めて南極観測に参加したのは、昭和31年秋だが、これを控えて濤沸湖を南極のプリンス・ハラルドに見立てて、機材の運搬、設営、雪上車、飛行機のテスト、観測訓練、スキー訓練などを行っていた。

観測隊の強化合宿だった。耐寒だけなら道内の内陸地の方が適地だが、広い氷上と流氷のオホーツク海がそばにあることから選ばれたのだ。 

1月25日から始まった訓練に当たって、網走市では訓練後援会をつくり、歓迎アーチ、歓迎幕「歓迎・南極探検隊総合訓練」のポスターづくりをするやら、出迎え、物品の買い入れ、馬橇の雇い入れなどの世話をし、現地北浜では協力会を作るなどして、網走市上げての協力態勢をとった。

濤沸湖上に宿舎、観測所、発電所、トイレ、無線アンテナなどが見る間にたち並ぶ。

湖上をトラック、ハイヤー、馬橇などが走り回る。見物人が群れをなすというにぎわいだった。

当時濤沸湖対岸の農村では冬は馬橇で湖上を行き来していたのだが、その馬橇までもが寄り道して見学する一大観光地に変わってしまった。

ところが、南極の条件や気象にいちばん近いとして選ばれた濤沸湖だったが、この年なんと暖冬だったのだ。

流氷の到来も遅れ、毎日おだやかな日が続き、天気が良すぎて観測器械の耐寒テストはできず、防寒服の試作も汗をかくばかりの有様だった。

2月10日に訓練終了。観測隊は15日には網走を離れた。

この間網走市内では永田観測隊長らの後援会を開催したり、市長主催のお別れパーティをするなど、期間中はにぎわった。

観測隊にとっては訓練結果はほどほどだったらしい。

だいたい、南極探検なのか、南極観測なのか新聞報道でも違いがあったほどで、最初の南極行きということで日本中が沸いたという時代だった。

網走市民にとっても大事件で、当時の有末市長は「観光都市として発展するために、大きな宣伝になり網走に新生面を開く糸口になった」と感謝を述べている。

網走市で最初で最大の文化的行事と報道された耐寒訓練が、すでに市民に忘れられて久しい。

冬の気象もおだやかで、温暖化はますます進んでいる。(き)


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