2009年12月07日

消えていく戦争遺跡

1941年(昭和16)太平洋戦争が始まるとともに、霞ヶ浦航空隊の訓練機が女満別に飛んでくるようになった。網走湖が霞ヶ浦の地形に似ていることと、女満別に気象観測用として作った飛行場があったためである。翌年には軍はこの地を「海軍航空隊美幌第二航空隊第二基地」と定め、本格的な飛行場整備が始まった。軍は強制的に用地を買収し、42戸の農家が移転させられた。 当時は建設機械などはなく、ほとんど手作業で滑走路などの施設を作った。強制連行で送られて来た朝鮮人500人、タコ労働者500人、網走刑務所からの囚人、それに勤労奉仕の村民など常時1000人以上が昼夜を分かたず働いた。

女満別町を流れるトマップ川のほとりには、タコ労働者を収容する粗末な小屋があった。夜になって逃げ出すタコ労働者も少なくなかった。満福寺の住職はたびたび彼らを地下の室(むろ)にかくまってその上に自分の布団を敷いたという。

戦況が悪化すると、女満別には陸軍の「暁部隊」「熊部隊」の兵隊が多数駐屯するようになった。「暁部隊」は主に網走湖にあった上陸用舟艇を使用するための施設づくりと物資の輸送をし、「熊部隊は」飛行場の待避壕や高射砲の砲台を作るのが任務だった。この頃、女満別の街には兵隊の姿が溢れかえったという。実際に慰安所も駅の近くに設けられた。

1945年(昭和20)敗戦が決まると、兵隊たちはあっというまに消えた。街の中心部の大部分を軍の施設に使われた女満別だが、軍隊がいなくなった後には無数の施設だけが取り残された。進駐軍が滑走路を爆破した以外は、当時そのままの状態だったという。が、強制立ち退きをさせられた農家も元にもどり、戦後復興の勢いはそれらの戦争施設をどんどん取り壊していった。戦後しばらくして、町民が調査して当時の軍施設の詳細な見取り図を作りあげた。

<わずかに残った掩体壕>

<今は倉庫に使われている軍施設>

現在、女満別に残る飛行場関連の戦争遺跡は掩体壕が2基、飛行機の格納庫が3基である。女満別空港に行く途中の後竹農場の奥にあるコンクリートで囲われた巨大な建物もそのひとつだ。これらの遺跡を残そうという動きが、町の歴史研究家である金子定男さんらによって進められている。近年になっても、建設工事中に地下壕が発見されるなど、戦争の遺跡はまだまだ地下に埋もれている、と考える町民は少なくない。 なお、1956年初めて札幌-女満別間を北日本航空の旅客機が飛んだが、その時の滑走路は海軍航空隊当時のものを修復したものだった。その後、この滑走路は新空港ができる1985年まで、なんと約30年間も使われ続けた。(ひ)


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