2007年09月14日

変貌する道東の稲作地帯

米づくりの北限はどこかというと、道北では遠別町、道東では大空町女満別であるらしい。女満別で最初に米作を手がけたのは1898年(明治31)に吉田甚松という人が本郷に来て始めたのが最初である。彼は釧路集治監網走分監看守をやめて、4年ほど網走の嘉多山で農業をしていたが女満別の網走川流域の土地が肥沃だったために移住したとされている。旧女満別町では吉田甚松を開拓の創始としている。

この頃の網走川流域は今よりも、もっと蛇行してゆっくりと流れる川だったが、春の雪どけや大雨が降った時にはたびたび大氾濫を引き起こした。実際、女満別の農業は洪水との戦いの歴史だった。

今も本郷で水田農業を続ける1920年(大正9)生まれの江口一男さんも1935年(昭和10)の水害をよく覚えているという一人である。美幌方面の築堤が次々に破壊されて、家族も高台に避難したが、どこが川なのかわからなくなった濁流のなかで、たくさんの大木と収穫して積み上げた無数の豆の山が流されていくのを見ていたという。

<昭和34年頃 3輪トラックに乗った出面さんたち>

江口さんも代々の水田農家で現在は14町歩の水田と4町歩余りの野菜を作っている。昔は温床づくりから田植え、稲刈り、すべて手作業だった。だから出面さん(今でいえばパート従業員というところか)の人数も必要だった。美幌方面まで毎日送り迎えをした。昭和30年頃で1日の出面賃は米3升だったと記憶している。冷害にも何度も見まわれた。田植えを終えた数日後に雪が降ったこともある。苗を作る温床にタンクにお湯を沸かしてまいたこともある。収量は1反当たり5~6俵だった。

今は機械化が進み、手作業は少なくなった。出面さんも必要がなくなった。水田1枚の面積もだんだん広くなった。江口さんのところでは、とうとう2町5反もある1枚の田圃ができた。これはひょっとすると日本でいちばん広い田圃かもしれないという。それでも多収穫を望むと食味が落ちる、と現代稲作の難しさを語る。

女満別の農家は1965年には910世帯だったのが、2004年(平成16)には381世帯に減少した。水田の面積は昔は1,500ヘクタールもあったのだが、減反政策で現在では260ヘクタールまでに減った。なんとこの数年で85%の水田がなくなったことになる。かつては道東の稲作地帯といわれていた女満別の水田は危機的な状況にある。(ひ)