2009年11月30日

大空という街

大空町は2006年(平成18年)3月31日、女満別町と東藻琴村が合併してできた新しい町である。この二つの街はもともとは網走町に属していたが、女満別は大正10年、東藻琴は昭和22年にそれぞれ分村独立した。その分村した町同士の合併ということになる。

空港のある女満別はオホーツクの空の玄関口として知られている。年間100万人の利用客がある女満別空港は、2,500メートルに滑走路が伸び、ターミナルビルも拡張されるなど、大型機の利用と海外便の運航に期待が持たれる。道内でも空の輸送の拠点としての重要度は増している。また、朝日ケ丘展望台やメルヘンの丘など、景観の美しさを積極的に観光資源に活用している。

東藻琴は藻琴山からの台地が広がる地域で、畑作と畜産が中心の田園地帯である。その牧歌的な風景をアピールして、「ノンキーランド」の愛称を村の名に付けた。生産される牛乳からチーズなど、より付加価値の高い二次加工品を製造する取り組みも行われている。

合併によって町は南北に細長く拡大し、藻琴山から網走湖までの広い行政区域となった。合併後の人口は約8,600人。「大空と大地の中で、ふれあいと語らいで創る、感動のまち」を将来像に掲げた新しい町づくりが始まった


2009年11月26日

「男はつらいよ」寅さんとリリーの網走川

<河口に近い網走川>

寅さんといえば、かの国民的映画といわれた渥美清主演の「男はつらいよ」である。渥美清扮するテキ屋でフーテンの寅は、48作全てに登場する美女に恋してふられる。そのマドンナの中で4度も登場しているのが、浅丘ルリ子が演じるドサ回りの歌手リリーである。

そのリリーが網走にも現れている。寅さんシリーズ第11作、「寅次郎忘れな草」は、1973年(昭和48)の作品だが、網走市内や網走川付近でロケが行われた。網走橋のたもとでインチキくさいレコードを売る寅さん。そこへ街のキャバレーのショーに出演中のリリーが現れ、声をかける。

二人は廃船などが置かれている網走川の川岸に座っている。二人は網走川の川面を眺めながら話し合う。「わたしたちの生活はあぶくみたいなもんだね」「うん、あぶくだ。それも上等のあぶくじゃねぇよな。ふろの中でコイた屁じゃないけど背中の方へ回ってパチンだ」と寅さんが答える。流れる水のように二人はまた別々の旅に別れていく。

寅さんシリーズの中で、もっとも人生の哀歓がにじむ作品がこの「忘れな草」である。テキ屋とキャバレー歌手という世間からはみ出た二人は、気が合うが喧嘩ばかりしてなかなか結びつかない。「寅次郎相合い傘」のなかでリリーが愛の告白をするが、「お互い所帯を持つ柄かよ」と寅さんはつれない。

最終の48作「寅次郎紅の花」は沖縄が舞台だった。「この次、寅さんと会うのは北海道の流氷が浮かぶ港町かも知れない」とリリーは語っているのだが、渥美清という役者が死んで、流氷で盛り上がる渚を二人が歩くシーンは夢になった。「寅さんとリリーが夫婦になって知床に住み着いてほしかったなあ」と言うのは、シリーズの結びに対する私の夢であった。

寅さんとリリーがたたずんだ頃の網走川の畔は、廃船や造船所、漁具などが雑多に転がっていたが、市民にとってはなぜか郷愁を誘われる場所であった。それが様変わりした。昭和40年代からの網走川の変貌は日本社会の変貌と重なっている。寅さん映画の価値は時代を見直す所にもある。(き)


2009年11月19日

あたかも天の都にいるような天都山

<天都山山頂>

『恰(あたかも)天都ニ在ルノ感アラシム』と命名書にあるのが、網走市の南西にある標高207メートルの天都山。360度の展望を持ち、網走市街、オホーツク海、網走湖、能取湖、斜里岳、雌阿寒岳までも一望できる。なんといっても世界自然遺産に登録された知床連峰の全貌が見えるのはすごい。まるで天の都にいるような気持ちになるというのも、満更大げさともいえない。

命名したのは第十二代網走支庁長渡辺勘一で、1925年(大正14)、馬に乗って天都山に登り『一眸際涯ナシ雄大剛壮真ニ俗腸ヲ洗フニ絶ヘタリ』と書いた。俗腸というのは、俗っぽい心のことだから、ほとんどの人々が足を運ぶ資格がある。

1950年(昭和25)、道立公園に指定された。山頂にはオホーツク流氷館があり年間を通して流氷が展示され、流氷の海のメカニズムが学習できる。美智子皇后が皇太子妃の時、流氷館を見学され手でさわられたという氷塊が、今も展示室に保存されている。館には展望台、レストラン、物産販売店が設けられている。

頂上に俳人臼田亜浪の「今日も暮るる吹雪の底の大日輪」の句碑、流氷館屋上には歌人宮柊二歌碑「北国の日筋きびしく差す下に能取網走の湖二つ見ゆ」などが建立されている。

周囲には約一千本のエゾヤマザクラが植樹され、付近は道立オホーツク公園で、オートキャンプ場「てんとらんど」や道立北方民族博物館がある。夏もいいが冬もすばらしい。網走湾を埋め尽くす流氷野、大氷盤になった網走湖、粉雪の中に浮かぶ夕陽を眺めたら、たしかに俗腸が洗われるだけでなく人生観が変わるほどである。(き)


2009年11月11日

網走という街

網走は北海道を代表する観光地なのだが、札幌、富良野から比べると、やや違うイメージを持たれている。それは朔北というだけでなく、網走刑務所の所在地というマイナスイメージの定着も作用している。

たしかに明治23年(1890)に、網走囚人宿泊所が設置され、翌24年に中央道路(網走ー旭川間)が開かれるとともに、内陸への交通、屯田兵の入植などが増加し、それにともない網走の町は大きく発展する。

番外地イメージは市民にも嫌われているが、歴史的には刑務所とともに発展した町である。刑務所の歴史を「博物館網走監獄」(大曲)が、展示し、網走観光最大の入館者数を示しているが、未開の地を受刑者が切り拓いた歴史は、否応なく学ばなくてはならない。

しかし、網走を訪れた人々が必ず口にするのは、想像以上の明るい街であり、大自然の景観のすばらしさである。これはオホーツク海と網走湾を取り囲むような世界自然遺産の知床連峰の壮大な眺めと、五つの湖沼を持つ海・山・湖の自然と、豊富な食材という恵まれた土地であるからだ。年間観光客200万人、特に冬の流氷観光の拠点として網走は、我が国屈指の観光地であるといっていい。

網走はおよそ150年前の安政6年ころから、漁業のアバシリ場所となり、アバシリ村、網走村、北見町と変遷し、昭和22年(1947)に市制を施行して網走市になった。人口は昭和55年の44,777人をピークにやや減少し、現在43,000人台となっている。麦類、馬鈴薯などの農産物、サケ、ホタテなどの海産物を主とした産業に、観光を中心にした「活力あるオホーツクの都市」を掲げて町づくりに向かっている。