2009年12月28日

美幌という街

美幌町は網走支庁の中央部、北見市と網走市の中間あたりに位置し、南には釧路へと続く美幌峠があり、多くの道路が町内で交差することから交通の要所としても栄えてきた。

町名はアイヌ語の「ピ・ポロ」に由来し「水が多く・大いなる場所」という意味がある。その名の通り町内には大小60本もの川が流れ、中でも屈斜路湖の外輪山を水源とする美幌川は、 平成15年に清流日本一に指定されたほどの水質を誇る川だ。

人口約2万2千人の美幌町の主幹産業は農業。なだらかな起伏が続く盆地の地形と、町の中を流れる美幌川、網走川の両側に広がる肥沃な土地を有する大地からはじゃがいも、小麦、ビートなどが主要な作物として生産されている。


2009年12月21日

清里という街

清里町は世界遺産に指定された知床半島の付け根に位置し、日本百名山のひとつである斜里岳や摩周湖などに囲まれ、町内を清流・斜里川が流れる自然豊かな人口約五千人の街である。

1943年(昭和18)に斜里町と小清水町の一部から分かれて開村した上斜里村が、1955年(昭和30)の町制の施行によって清里町となった。公募により決定された町名には「清らかな里」という意味と、小清水町と斜里町から一文字ずつを譲り受け、二つの街から分村して街が誕生した歴史が刻み込まれている。

この街の主幹産業は農業でじゃがいも、麦、ビートなどを栽培する畑作が中心。一戸の農家が広大な畑を耕作する大規模農業が特徴だ。反面、長きに渡って清里町の経済を支えてきた林業は木材の需要の低下、外材との価格差などから生産活動が低迷する傾向にある。


2009年12月14日

小清水という街

小清水町は一口に言って、農業の町である。総人口約6,000人のうち約3分の1が農業に従事している。ほぼ長方形の町は、国有林におおわれた南部の山岳地帯から北に向かってゆっくりと傾斜しオホーツク海に達する。この波状傾斜地の地味が良いと言われ、広大な畑作地帯を形成している。  

作付けの作物は麦類、馬鈴薯、ビートが主だが付加価値の高い野菜や花の栽培も増えている。気象もオホーツク海と内陸からの影響を受ける2つの様相があり、時として山岳からの強い風を受ける風害もある。 近年は農業の他に、観光事業も活発に行われ、小清水原生花園をはじめ、リリーパーク、藻琴山のハイランド小清水725など年間の観光客の入り込みが約80万人にまで増加している。

また、オホーツクの村などに見られる、ナショナルトラスト運動や町民の畑作と連動した農業体験など体験型観光への取り組みも盛んになっている。 2005年にはトーフツ湖のラムサール条約締結が決まり、自然を楽しむという視点から、ますます重要な観光のエリアとして期待されている。  

小清水は、もとは斜里村の一部だったが、1919年(大正8)に小清水村として分村、1953年(昭和28)に小清水町に町制施行となった。この辺り一帯は明治、大正時代には止別原野と呼ばれ、林業が盛んだった。明治24年に釧路~網走の道路が開かれ、小清水に駅逓が設置されて現在の本町を中心に市街地が開かれるようになった。


2009年12月07日

消えていく戦争遺跡

1941年(昭和16)太平洋戦争が始まるとともに、霞ヶ浦航空隊の訓練機が女満別に飛んでくるようになった。網走湖が霞ヶ浦の地形に似ていることと、女満別に気象観測用として作った飛行場があったためである。翌年には軍はこの地を「海軍航空隊美幌第二航空隊第二基地」と定め、本格的な飛行場整備が始まった。軍は強制的に用地を買収し、42戸の農家が移転させられた。 当時は建設機械などはなく、ほとんど手作業で滑走路などの施設を作った。強制連行で送られて来た朝鮮人500人、タコ労働者500人、網走刑務所からの囚人、それに勤労奉仕の村民など常時1000人以上が昼夜を分かたず働いた。

女満別町を流れるトマップ川のほとりには、タコ労働者を収容する粗末な小屋があった。夜になって逃げ出すタコ労働者も少なくなかった。満福寺の住職はたびたび彼らを地下の室(むろ)にかくまってその上に自分の布団を敷いたという。

戦況が悪化すると、女満別には陸軍の「暁部隊」「熊部隊」の兵隊が多数駐屯するようになった。「暁部隊」は主に網走湖にあった上陸用舟艇を使用するための施設づくりと物資の輸送をし、「熊部隊は」飛行場の待避壕や高射砲の砲台を作るのが任務だった。この頃、女満別の街には兵隊の姿が溢れかえったという。実際に慰安所も駅の近くに設けられた。

1945年(昭和20)敗戦が決まると、兵隊たちはあっというまに消えた。街の中心部の大部分を軍の施設に使われた女満別だが、軍隊がいなくなった後には無数の施設だけが取り残された。進駐軍が滑走路を爆破した以外は、当時そのままの状態だったという。が、強制立ち退きをさせられた農家も元にもどり、戦後復興の勢いはそれらの戦争施設をどんどん取り壊していった。戦後しばらくして、町民が調査して当時の軍施設の詳細な見取り図を作りあげた。

<わずかに残った掩体壕>

<今は倉庫に使われている軍施設>

現在、女満別に残る飛行場関連の戦争遺跡は掩体壕が2基、飛行機の格納庫が3基である。女満別空港に行く途中の後竹農場の奥にあるコンクリートで囲われた巨大な建物もそのひとつだ。これらの遺跡を残そうという動きが、町の歴史研究家である金子定男さんらによって進められている。近年になっても、建設工事中に地下壕が発見されるなど、戦争の遺跡はまだまだ地下に埋もれている、と考える町民は少なくない。 なお、1956年初めて札幌-女満別間を北日本航空の旅客機が飛んだが、その時の滑走路は海軍航空隊当時のものを修復したものだった。その後、この滑走路は新空港ができる1985年まで、なんと約30年間も使われ続けた。(ひ)