2010年01月15日
流氷は到来でなく襲来であった
1902年(明治35)3月7日の「北海道廳告諭」というのがある。告諭とは文字通りお役所が民に「告げさとす」ことだ。
内容をわかりやすく書けば、『この冬稚内網走航路は例年に比べて流氷の襲来が意外に早くて、欠航も止むを得なかった。そのためオホーツク沿岸の地方人は、冬越しの米や塩が不足し大変な困難にあった。これは予想外のことだけれど、地方人が冬の航海に頼らず冬に入る前に越年の準備をしておくべきである』
というものだが、最後に「今日ノ惨況ヲ踏マザル様篤ク心得置クヘシ」とある。北海道庁長官 男爵 園田安賢の名で告諭されたものである。
告諭されたオホーツク沿岸の人々にとっては、流氷という自然現象に立ち向かうすべはなかった。流氷はこの明治の時代から昭和30年代まで、恐ろしいものであり嫌われ者であった。告諭の言葉のように、流氷は襲いかかってくるもので「襲来」であったのだ。
調べて見ると、この年(明治35)早かった流氷は枝幸の沖合を覆った。小樽からの定期船が物資を満載して枝幸に向かう予定だったが、出航を停止した。枝幸の米屋の在庫は3月の海明けまでは無理になった。その噂が広まり住民は米を買い求めようと走り回る。米屋は品切れと言って販売を拒む。不穏な空気に警察は米屋の倉庫を抜き打ち検査する。米騒動に一触即発の状況になったという。
冬の食糧米を越年米といった。この確保いかんでは飢餓につながるのが、当時のオホーツク沿岸の実情だった。この時の米騒動は米穀商の三浦重吉という人が、漁船三隻を雇い流氷の間を縫って枝幸港へ白米二百俵を輸送し、多額の損失を出しながらも住民の急を救ったという話が伝えられている。(頓別村発達史)
この話のような越年米の不足は度々網走でも起きたようである。(き)

<昭和30年頃の大流氷塊>

<北浜海岸の流氷山脈>





