2010年05月31日

世界自然遺産と「もうひとつの知床」

<離農後の開拓地>

知床が世界自然遺産になった。

知床の自然、生物が貴重なものとして取り上げられ、多くの研究者、観察者、観光客でにぎわっている。知床奥地に入ることは禁じられているため、わずかに知床五湖までが、知床半島の現地として人気を集めている。野生のクマと遭遇する機会もあるという。

その野生のクマがいる知床五湖の手前にある植林地付近が、知床開拓地として農民が生活していた場所だったこと、特に開拓の歴史はあまり知られていない。

知床岩尾別開拓は三期に分けられる。

  1. 大正時代の開拓――1914年(大正3)、7戸が入植したのを初めとして60戸が入植したが、その後大正13年にほとんどが離農する。
  2. 1938年(昭和13)38戸が入植するが大半が離農する。
  3. 1945年(昭和20)から戦後入植が始まり65戸となる。昭和41年全戸集団離農をする。

この3回にわたる入植が、同じ土地であり離農地であったというのは驚きである。きびしい寒さと強風という気象条件、市街地への交通困難、岩石が多い酸性土壌という農業不適な土地へ、開拓者を入地させたのは国策であった。

北海道開拓の増進、戦後の食糧難という事情はあるものの、営農困難な地域に開拓者を入れるという国や道の方策は、無謀なものであったと考えられる。

次はY子さんの話。

開拓者たちは斜里から船でウトロに来て、荷物を背負いこどもを背負って山道をはい上がり、着手小屋に到着した。

冬はテントをフトンの上にかぶせて寝ても3寸(9センチ)も雪が積もった。羅臼岳、硫黄山おろしの強風のため、イナキビ、ソバをまいても、実った穂が風に飛ばされ地面がソバの実で赤くなった。わき水もなく遠いところからてんびんで運んできた。

夏は水がかれ秋は落ち葉で水が出なくなり、冬は凍ってしまう有様だった。

川から水を引いて道ばたの水槽にため、ひしゃくで汲んで使った。川の水から赤痢が集団発生して、罹病した3歳の女の子を背負って、ウトロの診療所まで10数キロの山道を歩いた。

このような話が山ほど元開拓者から語られている。昭和30年後半から離農が始まり昭和41年残っていた18戸が集団離農して、岩尾別開拓は終焉した。

その後開拓地跡はナショナルトラスト運動地として買い上げられ、自然に戻そうと植樹などが行われている。

世界自然遺産登録の光の陰に、岩尾別開拓の歴史があることを記録に残したいと、私は「もうひとつの知床」(北海道新聞社)を刊行した。知床半島は無垢の自然でも、秘境でもなく繰り返された開拓の歴史を持っている。自然と人間の歴史は分かちがたく存在している。これを欠落させてはならないのではないか。世界自然遺産の根底を、そう考えている。(き)


2010年05月24日

清里の空気感を伝えるじゃがいも焼酎

<絶好のロケーションの中に建つ焼酎工場、ここでじゃがいも焼酎は作られる>

北海道の短い夏が終わり、黄金色に色づいた麦畑が収穫の秋を告げる8月下旬。清里町にある焼酎工場(パパスシャトー)にはとれたてのの新鮮なじゃがいも運び込まれ、焼酎の醸造が始まる。

清里の特産品であるじゃがいも焼酎の原料に使われるのは、デンプンの含有量が多いコナフブキという種類のじゃがいもである。食用にされる男爵やメークインのデンプン含有率が14~15パーセントなのに対して、コナフブキは20パーセント以上。このデンプンの含有率の多さがうまい焼酎作りには欠かせないのだ。

焼酎の醸造は麹(こうじ)作りから始まる。蒸した地元産の二条大麦に麹菌を加え、数日ねかせると麹が出来上がる。ここに水と酵母を加え、発酵させると一次もろみとなる。ここに大きな釜で蒸し上げたじゃがいもを粉砕し、水と共に加えたものが二次もろみ。ここでアルコール発酵が始まる。じゃがいもや大麦に含まれるデンプン質が麹菌によって糖化され、ブドウ糖が酵母の働きによってアルコールへと変化していくのだ。そして、10日間ほど熟成された後、二次もろみは蒸留されて、アルコール分40~44度の原酒が出来上がる。

じゃがいも焼酎の醸造は11月いっぱいまで続けられ、2005年は160キロリットルの焼酎が製造された。これは720ミリリットル入りのビンに換算すると22万本分になり、85回も行われた仕込みでじゃがいも110トン、大麦90トンが原材料として使われた。

工場では取引先からの要望によって作られたオリジナル焼酎、ビンの容量の違いなどを含めると約40種類の焼酎が製造されているが、中でも人気が高いのは一年間熟成したアルコール分25度の「浪漫倶楽部」と、原酒がそのまま味わえるアルコール度44度の「北緯44度」である。

このところの焼酎ブームの影響で、じゃがいも焼酎の製造量も数年前と比べると倍近くになったという。しかし、製造量が増えてじゃがいも、大麦、水と地元産の原料にこだわる清里町焼酎醸造事業所の焼酎作りに対するポリシーは変わらない。

封を開けると、豊かに広がる焼酎の香り。それは焼酎の原料を生み出した北の大地の香りでもある。じゃがいも焼酎のビンの中には清里町の空気感が封じ込められている。

清里焼酎工場のHPは → こちら (ネットでじゃがいも焼酎の販売もしています。)

<清里焼酎のラインナップ>


2010年05月18日

じゃがいも街道の名付け親

<畑作地帯を走るじゃがいも街道>

国道244号線から分岐して、まっすぐ小清水町市街に入るに町道は『じゃがいも街道』という名で呼ばれている。この道には『町道21線基幹道路』というれっきとした正式名称があるのだが、小清水町民はもちろん、周辺市町村の人たちも、じゃがいも街道と愛称で呼んでいる。これほどニックネームが定着してしまった道は多くない。

この道の名付け親ともいえる人物がいる。小清水町で伊藤文化堂という文具店を営む伊藤三七男さんである。伊藤さんは清里町生まれ。東京に出て広告代理店のコピーライターとして活躍していたが、どういうわけか脱サラで小清水町に居を構えた。そこで、いままで行っていた町のイベントのネーミングにもアイデアを出していくことになる。「ふるさとまつり」を「じゃがいもフェスティバル」にとか、彼の提案が行政や町民に少しずつ受け入れられていく。

伊藤さんの発想の原点は、「広大な農地と主生産物のジャガイモ」というイメージでとにかくじゃがいもにこだわって小清水町を印象づけよう、ということだった。ふるさとまつりもネーミングを変えるだけではなくて、イベントにも直径2メートルもあるジャガイモのご神体の神輿を作ったり、いもねーちゃん、いもにいちゃんのコンテストなどユニークな企画を考えた。講談社のフォーカスには日本のミスコンテストの中でいもネーチャンが紹介されたほどである。

<じゃがいも街道沿線には野菜の直売所もある>

そんななかで、町道21号基幹道路をじゃがいも街道と名づけようと提案したのである。国道からじゃがいも街道に入ると左手には知床の山並みを背景にして、この地方独特の波状傾斜地の畑作地帯が広がる。そこで耕作されているのがすべてジャガイモかというとそうではない。連作を回避するということもあるが、実は小清水町全体の耕地のなかで毎年いちばん多いのはわずかな差ではあるが、ビート畑である。それでもイメージとしてはじゃがいものほうがより身近に感じられる存在である。

昭和60年に町長が「じゃがいも街道」にしようと決断してから約20年、今では出版社のガイドブックやカーナビの画面でも、この道はあたかも正式な名称として表れるまでになったのだが、当の伊藤さんは、最初は小さな看板で、もっとゆっくりとなじんでもよかったかもしれないと、言っている。襟裳の天馬街道とか、富良野の白樺街道とか、どうもこのじゃがいも街道に刺激を受けてネーミングした道があるなかで、これほど地元民から親しまれて定着している道の名は少ない。小清水町のとらやという菓子店ではじゃがいも街道というオリジナルのお菓子も製造している。(ひ)


2010年05月11日

網走の馬のおじさんがいる牧場

JR藻琴駅から徒歩で約10分、オホーツク海を見下ろす高台に「網走原生牧場観光センター」はある。ここで約五十頭の馬と暮らしながら、訪れる人々にホーストレッキングを体験させている小西行侊さんは、網走の農家に生まれ、幼い頃に農耕馬と一緒に生活していた。つまり、小西さんにとって、馬は身近な動物だったのである。

「この場所は元々牧場だったけれど、その一角にレストランを作った。だから、開業当初から牛がいたりはしたんだけれど、動物がいると観光客の人たちが喜ぶんだ。それで馬を飼い始めてみると、今度は『乗馬はできないんですか』とたずねてくる人がたくさんいた。『じゃあ、やってみるか』と馬に乗せてみたら評判になってね。私自身が根っからの馬好きなもんだから、気がつけば五十頭の馬が走り回る牧場になってしまったわけさ」と小西さんはホーストレッキングを始めたきっかけを話してくれた。

<今日も優しい眼差しで馬たちを見つめ、一緒に暮らす小西さん>

「網走原生牧場観光センター」で乗馬を体験する人たちを見ていて、最も驚かさせるのは「乗馬はするのは今日が初めて」という人がいきなり馬にまたがり、引き綱もなしにホーストレッキングに出かけてしまうことだ。

これにはいつかの理由がある。まず、馬たちは広大な牧場で放し飼いにされているのでストレスがない。余計なストレスがないと馬たちは大らかで従順な性格に変わっていき、初心者でも乗りやすい馬になる。

また、引き綱はないが、先頭には必ずインストラクターが乗るリーダー格の馬が立つ。馬は本来群れで行動する動物で、放牧しておけば自然に群れの中での序列やルールを覚えていく。つまり、他の馬がリーダーである馬の後ろについて行くのだ。

「ホントは馬に乗っているのではなく、馬に乗せられているんだけど、ここでは難しいことを考えずに、まず乗馬を楽しんでもらえればいい。さらに自慢できるのは、ここのロケーションの良さだね。晴れた日には知床半島、斜里岳、藻琴山が見えて、オホーツク海が眼下に広がり、少し馬で走れば藻琴湖があって、冬には流氷が来る。こんな場所は北海道中どこを探してもないでしょう」

通称「網走の馬のおじさん」の小西さんの人柄に魅せられたリピーターも多い「網走原生牧場観光センター」は、北海道らしいロケーションの中で乗馬を心ゆくまで楽しめる場所である。(く)


2010年05月06日

帽子岩には網走発祥の物語がある

網走港に高さ23メートルの帽子岩というのがある。茶褐色の安山岩の岩肌で上部が丸く平らに見えるから、ちょうどシルクハットを海上に置いたように見えるところから、この名がついたらしい。

ところが昭和初期までは渡良岩が正式名称だったらしく、明治、大正時代の地図には渡良岩と記入されている。しかし明治のころから、俗称として帽子岩と町民に使われていたと考えられる。

<帽子岩>

1874年(明治7)網走村に着いた外国人ライマンは「――其の頭ハ丸クシテ、其ノ下ニ広キ礁岩アリ。依テ、乾潮ノ時、其一側ヨリ外形ヲ写セシニ、恰モ古形ノ縁広キ帽子ノ如シ」と記している。また、明治23年イギリス人の旅行家ランドーが網走を通過したとき、写生図を残している。

渡良岩のワタラはアイヌ語で、岩という意味でアイヌ人たちはカムイワタラ(神の岩)と呼んでいたという。この岩は網走という地名発祥の場所だという説がある。

網走という地名にはアイヌ語の解釈に四つの説があった。

  1. チパ・シリ「幣場(祭場)」で帽子岩を指す。
  2. チ・パ・シリ「我等・見つけた・土地」
  3. アパ・シリ「入り口の・土地」
  4. チパシリ・チパシリとなく鳥(民話)

網走市史上下巻執筆者の田中最勝(故人)さんは、1.の幣場の帽子岩の説をとっていた。アイヌは沖へ漁に出るとき、行きと帰りにこの島の祭壇に立ち寄り、漁の祈願をして帰りには漁の感謝を捧げたとされる。アイヌの自然観から考えると、海上に浮かぶカムイワタラへの信仰は当然のように思われる。

ところが、チパシリ岩について明治23年永田方正が「北海道えぞ語地名解」で「コノ岩崩壊シテ今ハ無シ」と伝えている。これは現在の帽子岩でなく網走湖岸にもあったチパシリ岩のことで、松浦武四郎の「戌午日誌」1858年(安政5)に、網走湖岸のチパシリ岩がスケッチされている。網走という語源を伝えるのは、もしかするとアイヌからの聞き取りしたこの岩だったのかもしれないのだ。(き)