2010年09月27日

ビート糖は農村の味

東オホーツクの農業三作と言われているのは、ジャガイモ、麦類、そしてビートである。連作を避けて畑地ではこの3品を毎年交互に栽培する。

なかでもビートは北海道ならではの作物で、いわゆる砂糖の原料として利用されている。別名、砂糖ダイコンとも呼ばれる所以である。 

このビート、見た目はダイコンやカブの仲間のようではあるが、実はホウレンソウと同じアカザ科の植物で、実際夏になって成長したビートの葉はまるでホウレンソウのようでもある。ここから取れる砂糖は100%自然のもので、最近ではさらにオリゴ糖としてのラフィノースも抽出されている。 

ビートの主産地はフランス北部で、ナポレオンがイギリスからの物資の輸入を封鎖した結果、砂糖が欠乏し盛んにビートの栽培が奨励されたことから始まる。それが日本に伝わったのが明治3年、北海道で本格的に栽培が始まったのが明治11年である。

さて、このビートを用いて家庭の台所で試しに砂糖を作ってみた。

以下がその製造方法である。

今回用意したのは清里町の畑作農家で収穫されたビート約2.4Kgのもの4個。これを軽く水洗いをしてイモの皮むき器で表面の皮を削り取る。その際に窪んだ凹みや穴に泥が詰まっているのでそれをきれいに除去する。

それを真ん中から半分に切って、大工カンナで薄く削る。表面は固いが、削っているうちに内部が水分を含んでいて削りやすくなる。

鍋にお湯をわかし、削り終わったビートを鍋に入れる。この時の水量の目安はビートがすべて水に隠れるくらいでよい。これを強火でくつくつ煮る。

煮ること2時間、くたくたになったビートを鍋からすくい出し、ここに含まれる水分(糖分)を餡を漉す要領でさらにしぼり、汁を鍋にもどす。この時の鍋に入っている汁の色は緑黄色で、ちょうどホウレンソウを茹でた後の茹で汁のような色をしている。匂いも不思議と似ている。

それからさらに強火で1時間、水分を飛ばす。浮いて来るアクをこまめに取ってやるのがポイント。

1時間熱すると汁の量も最初の5分の1くらいになり、色はカラメルのように艶が出てくる。とろとろの状態になったところで完成である。 

戦中戦後の甘味が欠乏していた時代、農家の人たちはこのようにして自家製の「糖蜜」と呼ぶ甘味を作っていた。

ある農家では風呂用にして使っていた五右衛門風呂を一時的に糖蜜づくりの大鍋に利用して大量のビートをきざんで砂糖の代用品を自家製造していたという。

ビートを削る道具もビートかんなと呼ばれるかんなも使われていて、一度に2枚削れるものもあったという。この時代の子どもたちはイモだんごなどにこの糖蜜を付けて食べた。

実際に作った糖蜜をカボチャだんごに付けて食べてみた。糖蜜自体はかなり甘いのだが、ちょっといがらっぽい感じがする。

昔よく食べたというおばあさんに試食してもらうと、昔の味と同じだが、昔はもっと苦い味だった、という。

ちなみに今回試作したビートは正味約6キロで出来た糖蜜は約800グラムであった。ビートの糖分含有量は平均16.5%といわれているのでまずまずの成果だったか。(ひ)

<まずビートを用意>

<よく水洗いをする>

<皮をむく>

<適当な大きさに切る>

<カンナなどで薄くスライスする>

<水を入れた鍋にビートを入れ火にかける>

<煮立ったらビートを取り出す>

<取り出したビートをさらに漉す>

<その汁を煮立たせる>

<ぶつぶつ泡を立て始めたら完成>

<完成したら小瓶に移す>

<カボチャダンゴにつけて食べました>


東オホーツク百の話 at 09:29 | PermalinkComments( 0 )TrackBack( 0 )

2010年09月21日

カムバックサーモンとサケの皮はぎ

何千尾がいるだろう。遡上してきたサケの群れが夜の湖水でしぶきを上げている。

網走湖の呼人浦キャンプ場に近い白羽川河口に、ホッチャレとなったサケがふ化場のある沢をめがけて必死に遡ろうとしている。

<そ上するサケの説明をするHATAさん>

「カムバックサーモンIn網走湖」と名付けたこのイベントの白眉は、生命を引き継ぐために小川に向かうサケの必死の姿だろう。

オホーツク海から網走川を遡る途中でウライ(大曲サケ捕獲場の柵)を乗り越えたサケたちが、ふ化した白羽川の清水を求めてボロボロのからだで、産卵場所にたどり着こうとして、湖水の浅瀬にひしめいているのだ。

しかし、堰が作られていて白羽川にはたどり着くことはできない。すべてのサケたちはここで命を終える。 

ガイドのHATAさんは、「ほとんどのサケはここまでもたどり着けない。ここまで来たサケは幸せなんです」と解説するが、捕獲事業の矛盾もかいま見せている。

観光客たちはサケたちの壮絶な死闘を目の当たりにして、しばらくは言葉もない。命を賭けたサケたちの行為に、改めて感動を覚えるからだろう。 

2005年から始まったこのイベントは、10月1日より11月23日までのロングランで、湖畔のホテルや市内に宿泊する観光客を目当てに続けられている。

北方少数民族のテントが立ち並ぶが、特別に売店もなく、経済的には直接のメリットはないが、真の感動を売ることで網走観光のリピーターを増やそうとする取り組みである。

10月オープンの時から、11月の閉幕までキャンプ場にテントを張り毎夜手伝いをしている青年がいる。サケに魅せられ網走に定住したいという。

また、同じようにキャンプ生活を毎年2ヵ月続けている埼玉の夫婦がいる。一年働いて2ヵ月間だけ休みを取り、湖畔のサケを眺めにやってくるのだ。 

カムバックサーモンは、ひそかに網走観光を代表しているイベントだと思う。人々は必死のサケの姿から生命の尊厳を見る。そして己の生きる姿を見るのだろうか。

ここでは人間の欲望も、自然環境も全てを見せているのだ。

カムバックサーモン会場に今年から設けられた体験コーナーがある。サケの皮はぎといったら風情はないが、先住民族のアイヌの人たちのサケの有効利用に学ぼうということで、サケ皮の手工芸品作りを公開している。

アイヌの人たちがケリと呼ぶサケ皮の靴作りを、佐久間真奈美さんが実演している。この皮を用意するため、宮本芳一さんが直接アイヌの人に学び、皮作りの技術を工夫習得した。そして生サケの皮はぎを実演だけでなく、観光客にもやってもらおうという試みである。

あらかじめサケの頭の近くに切れ目を入れておいて一気に皮を剥ぐ作業を観光客にやってもらうのだが、これには段取りするときさけやすいようにしておくコツがある。

宮本さんの軽妙な解説に誘われて、恐ろしげに眺めていた客が挑戦する。するりと剥ける皮に時ならぬ歓声が上がり、次々と若い女性たちが参加する。 

生皮は天日で干して、木づちで叩いてなめす。柔らかくなったものを材料に手芸品が作られていく。

先住民の知恵を学び体験する「サケの皮はぎ体験」は、宮本さん等の熱意によって大成功し、人々に貴重な思い出を持ち帰させている。(き)

<皮はぎの実演をする宮本さん>


2010年09月13日

海の畑で育つホタテの日周輪

14トンのホタテ船に乗って網走港を出たのは午前3時過ぎ、漁場に着くとすぐ八尺というホタテ貝をかき集める大型の熊手みたいな道具を海中に投げ入れる。

漁場は畑のようなもので、稚貝を放流して4年目あたりに、海底を熊手で曳いて収穫する。

だから漁場の区割りは正確にローティションがくまれている。 

海底から上がってくるホタテ貝は、4年貝がほとんどだが中に8年貝、10年貝も混じっている。

引き揚げたあとは船長を含めて4人の乗組員が、甲板に積まれた貝の選別作業が始まる。

空貝を捨て小さなのを捨てヒトデやゴミを捨てる。この選別作業が忙しくきつい作業だ。 

八尺の投入と選別を何度も繰り返して14トンのホタテ貝を上げると、午前10時頃寄港し水揚げをする。

体験搭乗は一度だけだが、海上労働の厳しさが身にしみた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

<ホタテの水揚げ>

ある年、大時化のあとの藻琴海岸で大ぶりのホタテ貝を拾った。紋様を数えて見ると10年の年輪を数える。

網走市鱒浦にある道立の網走水産試験場へ出かけて、ホタテ博士の研究員に聞いて見た。「貝がらを読むと生活の履歴がわかるんですよ」と博士は言った。

また、年輪だけでなく貝殻の切断面をみると、一日一日の目盛りが確認されるという。

1年で365、10年で3,650の生活歴、すなわち「日周輪」が詰まっているという。

年輪の幅が狭くなっている年は、生育環境に異変のあったこと、たとえばプランクトンが少なかったとか、大時化で生育場所が変わったとか、流氷で海底が削られたなどの事件が推定される。

精神的なショックもあるんでしょうかね、と聞くと「もしかすると失恋したのかもしれません」とホタテ博士は真顔だった。

人間と同じように海中の生き物にも環境問題やスランプがあるのではないか、と思うと楽しかったが、人間のからだもどこかに日周輪が刻まれているとしたらと考えると、怠惰な暮らしが恥ずかしくなった。(き)


2010年09月06日

海抜0メートルから高山帯への30分のドライブ

雪のない季節しか走ることのできない道路。冬期間閉鎖の道路は各地にたくさんあるけれど、知床峠のように海抜0メートルから標高738メートルへ一気に車を走らせることの出来るコースはそう多くはないはず。標高738メートルは山の高さからいうと高山帯には分類できない標高ではあるけれど、そこは本州の感覚。

ここは知床。

知床峠は森林限界の境界線に近いところに位置している。

峠について車を降りると真夏でも涼しい気温に驚く。さらに、展望台に進むと、周りには大きな樹木はなく、高山帯の代表であるハイマツがびっしりと連なっている。

この知床峠の魅力は、峠から見ることのできる知床連山最高峰の羅臼岳の山容と、羅臼側の水平線に大きく横たわる北方四島の国後島のシルエット、そして海岸線からわずかな時間で高山帯に入り込む植生の変化である。サクラ、ミズナラ、ハンノキなどの樹林帯がやがて、ダケカンバの幽玄な樹型に変わり、視界が開けたところがハイマツ帯なのである。

ここまで来るのに30分。

冬期間の閉鎖が終わり、春の開通後の道路は除雪で出来た雪の壁。

ウトロの街では新緑が目に付く頃も雪の中の風景が続き、桜の花が美しい頃に、標高100メートルあたりではやっと新芽。

7月、蝉が鳴き始めるころに中腹にはチシマザクラの淡い桃色の花。

7月下旬には知床峠近くの湿地にミズバショウの白い花。

8月にやっと雪の解けた標高738メートルの峠は夏の様子に変わる。しかし、9月にはもう秋の気配。ハイマツの中にあるタカネナナカマドの紅葉がはじまり、10月には初雪。やがて吹雪も。そして積雪。ここでまた長い冬期間の閉鎖に入る。

これほど季節と追いかけっこをする知床峠の魅力は、標高の高低差で繰り広げられる変化だと思う。

ぜひ、車の窓に広がる知床の植物の変化を楽しみながら、一気に高山帯へと走っていただきたい。ドライブはよりいっそう快適になるはず。(さ)

<標高の変化が目で楽しめる知床峠>

<高山帯の森林限界へのドライブ>