2010年11月29日

教えてもらうことの多い、アイヌの人たちの生活

<春に大きな葉を広げるオオウバユリ>

知床で暮らしていたアイヌの人たちは、なにを食料にして暮らしていたのだろう?今は米がなくても、全国産地の米が手に入る。 

アイヌの人たちには文字がなかったので、残念ながらどのようなものを食べていたのかと言うたしかな記録は残っていない。 

しかし、代々、伝えられてきた食べものや、なによりもその土地の自然に沿った食料を利用していた。

開拓時代の栽培作物とアイヌの人たちの食料が一緒になり、聞き取りによる記録が残っているものが多い。

それは、大正時代に開拓に入った人たちも利用してきた食べ物になった。そして、現代では知床に住む人たちも自然からの恩恵として利用している。

今、私たちが「山菜」として利用している多くのものは、もちろん、他にも様々なものを工夫しながら利用している。

反対に、山菜として珍重されているものを、利用することはなかったという話もある。

調理方法に寄るところが多いのだが、しかし、自然界からの恵みを手間暇かけて利用しているスタイルには感心する。

普段私たちが目にする植物の利用を少し、紹介しておこう。

<夏に白い花を咲かせるオオウバユリ>

「オオウバユリ」夏に林内で花を咲かせるユリは、私たちがユリ根を食べるように、やはり球根を利用していた。

戦時中は「救済食」として栽培を奨励したと言う記録も北海道には残っている。球根から澱粉をとり、それをお粥や団子で食べる。

アイヌ語で「トゥレプ」 「ギョウジャニンニク」知床の春はこのギョウジャニンニクの香りで始まるほどみんなが夢中になる山菜。

しかし、アイヌの人たちは乾燥させてから料理に使うことが多かった。そのころはたくさんあったのだろうと思う。

最近は数が減ってきて山へはいる人は自分の場所を容易に人には教えない。アイヌ語で「プクサ」。

<この球根から澱粉を作り食料にする>

木の実は何でもよく利用していた。私たちも大好きなコクワやヤマブドウ、ミカンの香りのするキハダ、ドングリ、食料以外にも生活必需品のほとんどは樹木を利用していた。 

逆に、今、山菜の王様と言われている「タラノキ」は、希に薬として囓っていた他は食料としての利用はなかったという。

知床で暮らす私たちは改めてアイヌの人たちの自然との関わり方を、食べ物からも学ばなければいけないときかも知れない。(さ)


東オホーツク百の話 at 09:25 | PermalinkComments( 0 )TrackBack( 0 )

2010年11月22日

「少年倶楽部」に捕鯨の詩を載せた少年

網走港で捕鯨が盛んに行われていた昭和16年、「少年倶楽部」という雑誌に網走町の伊藤博國さんという少年の詩が掲載された。

1941年(昭和16)の「少年倶楽部」(大日本雄弁會講談社発行)十月号に網走の少年が投稿した詩は次の作品である。 

捕 鯨 船
北海道網走中學校二年 伊藤 博國

北の北のオホーツクの海

港には捕鯨の船がやってきた、
荒波狂う北海も、
北樺太の沖までも、
小さな船で遠征し、
今日も鯨を獲ってきた。
港の中へどっしりと、黒い煙をユラユラユラとなびかせる。
小さく書いた白い字は
『さゞなみ丸』と讀まれる。

今日の鯨を料理して、
まだまだ北のまだ北の、
オホーツク海のまん中で、
たゝかふ時は早くても
明日の午後か、明後日だ。
汽笛を三度ならしつゝ
帰って来るのはいつ頃か。
夕闇せまり霧流れ、
能取の霧笛もなりだした。
さゞなみ丸よ明日も又、
大きな鯨を獲ってくれ。

松野 一夫 畫  『評』

北海の荒波にたゝかふ捕鯨船『さゞなみ丸』の勇姿に胸をとゞろかせながら、明日への期待を強く描いてゐていゝ。
すこし弱い言葉がありますが、まづ少年らしい力のこもった海の詩といへませう。

<捕鯨船>

昭和16年と言えば、太平洋戦争勃発の年である。当時唯一と言ってもいい少年雑誌「少年倶楽部」十月号にその詩は載った。

すでに昭和12年7月に日中戦争が始まり戦時体制の色濃い時代であった。10月といえば、太平洋戦争開戦の12月8日まで、わずか一カ月余りという緊迫した時期でもあった。

手元に十月号の「少年倶楽部」がないので、雑誌の全体像を知ることはできないが、定価五十銭の雑誌は全国の少年たちに多くの読者を持ち、支持されていた。

捕鯨船の詩は、八月号で募集した「読者文芸入賞者発表」であった。少年詩は優等五名、秀逸五名、佳作七名が入選しており、優等五編のなかに伊藤博國さんが選ばれている。

網走中学(現南ケ丘高校)二年というのは旧制中学のことで、小学校を卒業した後、尋常高等科へ進む者と中学へ進む者とに分かれた。家庭の経済的能力と入学試験に合格する学力を持つ者だけが中学生になった。

伊藤博國さんは当時14歳であった。 

漣(さざなみ)丸は、日本水産の捕鯨船で凡そ百トンのキャッチャーボートである。

築港の澗の沖合帽子岩付近に停泊して、獲物の鯨は小舟が曳いてきてウインチで鯨浜の解体場に巻き上げた。三度クジラのポーが鳴ったというのも、この頃からのものだったことが判る。黒煙をなびかせる捕鯨船のいる夕刻の風景が描かれている。 

戦時中にもかかわらず、戦時色や愛国精神をうたわず純粋に捕鯨船を謳っている所が、この詩のすぐれた所である。網走捕鯨史の一頁を飾る貴重な作品と言っていい。 

この詩が掲載されている少年倶楽部のコピーは、台町の大松齢子さんからお借りした。「街にクジラがいた風景」(菊地慶一著)の出版によって大松さんが届けてくれたのである。大松齢子さんは伊藤博國さんの妹に当たる人である。 

伊藤博國さんは網走中学を卒業した後、早稲田大学国文学科に学び、後に福祉関係の仕事をされた後、現在東京都で健在である。(き)


2010年11月15日

料理の達人が作ったモヨロ鍋

東オホーツクには料理の達人は数々あれど、この人をおいては郷土料理を語ることはできない。網走市の安達浩子さんは、従来の料理ではなく新しい創作料理に挑戦し、各コンテストで毎回入賞の栄誉を手にしている人である。 

ここでは網走を代表する「きんき丸ごとモヨロ鍋」を紹介する。

モヨロとは、千五百年前、独特のオホーツク文化を作り上げていた古代人が、集落を形成していたモヨロ(網走市)にちなむ。オホーツク人と呼ばれる海洋民族をモヨロ人とも呼ぶ。 

この地元網走を代表する食材を使ったモヨロ鍋は、市内の旅館組合で宿泊客に提供して好評である。土鍋はホテルを営む宮本芳一さんがデザインしたもので、古代オホーツク人のグルメな暮らしがしのばれる。

網走ホテル旅館組合が募集したモヨロ鍋のレシピで、準優勝したものだが、安達さんは北海道の我が家発北海道料理コンテストにも入賞するなど、すでに10回ほどのコンテスト入賞記録を持つ。

<モヨロ鍋の審査発表 右端が安達さん>

きんき丸ごとモヨロ鍋 レシピ 

  • 材料(4~5人分)直径30cmくらいの土鍋・網走釣りきんき1尾 ・あさり20個 ・すりみ(ホッケかタラ)150g ・生しいたけ8個 ・しめじ1パック ・いんげん100g ・にんじん1本 ・みつば1把 ・いも団子200g(じゃがイモ中2~3個、でん粉適量大さじ3分の2)・焼き豆腐1丁 薬味大根下ろし、 ゆずの皮の細切り
  • 鍋の出し汁・昆布20cm ・花かつお30g  ・しょうゆ大さじ3 ・塩小さじ2 ・酒大さじ4・みりん大さじ4 ・水適量(土鍋の8分目くらい)
  • つけ汁・網走の魚醤油大さじ2 ・めんつゆ大さじ2 ・酒大さじ3・みりん大さじ3 ・ゆず酢大さじ3 ・鍋の出し汁150㏄
  • 作り方
  1. きんきはウロコを取り、つぼ抜きをし塩を軽くふり1時間くらいおく。
  2. しいたけは石づきを取り除き、カサに切り目を入れる。シメジはほぐす。
  3. いんげんは斜めに2つ切り、にんじんは厚さ3mm~4mmの花型にしておく。
  4. いも団子状にこねたものを小さいモヨロツボの形にし、フライパンでさっと焼いておく。
  5. 焼き豆腐は2cm角に切る。
  6. 三つ葉はざく切りにする。
  7. どなべに水と昆布を入れ加熱し、沸騰寸前に昆布を取り出し火を止め、花かつおを入れ、ふたをして4~5分おき汁こす。
  8. 7を加熱し沸騰してきたらきんきを入れ20分~25分煮る。
  9. 8に一口大にしたすり身と2.3.4をいれ5~6分煮て、そこへあさりと5を入れ2~3分煮た後に調味料をすべて入れる。(3~4分加熱する。)
  10. 9に6を散らす。
  11. つけ汁を全部合わせ鍋で火を通しておく。(き)

<安達さんが作った「きんき丸ごとモヨロ鍋」>


2010年11月08日

ポンモイは内陸開拓の起点であった

ポンモイ(アイヌ語・小さい入り江)という名に、郷愁を覚える人は多い。美しい海岸線とアサリ、フノリ、コンブなどの潮干がりなどで、網走市民には懐かしい思い出にあふれている場所だ。

1897年(明治30)6月、北見地方に入植した屯田兵が、初めてこの地方に上陸したのがポンモイであった。

東都丸でやってきた開拓民は、時化のため網走前浜に上陸できず「九月一日午後雨高波ノ為屯田家族百七十余名ホンムイ(ポンモイ)上陸ス」(高田源蔵日記)と記録がある。

ここからポーロの坂を荷物を担いで登り網走市街の光輪寺に宿泊した後、網走川を小舟で遡り網走湖の越歳に上陸、端野、北見の入植地を目指した。

<港湾整備前のポンモイ>

1992年(平成4)に屯田兵の子孫等によって「屯田兵上陸の地」の記念碑が現地に建てられた。

作家中野重治に「北見の海岸」という詩がある。

沖合はガスにうもれている渚はびっしょりにぬれている
その濡れた渚に黒い人かげが動いている
黒い人かげは手網を提げている
黒い人かげは手網をあげて乏しい獲物をたずねている
黒い人かげは誰だろう
黒い人かげはどこから来ただろう

重治は1922年(大正11)に来網しているが、その時、原生花園かサロマ湖の方に足をのばしたのでは、と木原直彦さんは言うが、モヨロ海岸ではないかという説(定道明さん)もある。印象的にはポンモイ海岸という見方も成り立つ。

場所はともかく、黒い人かげはアイヌ人だと定さんは推論している。当時網走町には31戸88人のアイヌ人がいて、大正末期に急激に減少していると述べている。 

ポンモイは、かつての先住者アイヌの人たちが、海の幸を採集する場所であり、風波をさけて小舟を寄せる安息の場所だったのは間違いない。(き)


2010年11月01日

赤イモほど花が白いジャガイモ

<北浜のでんぷん工場>

国道244号線を斜里から網走方面に走ると、濤沸湖の対岸の丘ににょっきりと白亜のビルらしきものが見える。実はこれはオホーツク網走農業協同組合のでんぷん工場である。遠くからでも見える塔は2つのでんぷんの貯蔵サイロ、地上55メートルもある巨大施設である。 

この工場は昭和44年に現在の北浜に移転されて以来、37年間馬鈴薯でんぷん工場として操業を続けている。機械化もどんどん進み、今では原料イモから製品化までの行程はほとんどオートメーションになっている。

秋の収穫時期ともなると、近隣の農業家から毎日トラックでジャガイモが運ばれてくる。工場の原料処理能力は一日に約1,300トン、でんぷん製造量は1日250トン。1袋25Kg入りのでんぷんが1万袋も製造が可能である。 

運ばれてきたジャガイモは土砂や小石などを洗い落とし、すぐにウルトララスプという機械で細かく砕かれる。それをでんぷんを含んだ液とイモのカスに分ける。

この段階ではまだ水分が38%もあるドロドロの液体である。それを真空脱水機という回転する巨大なドラムにかけると水分17%の粉状のでんぷんになる。それをさらに製粉機にかけて最終的な製品となる。原料の搬入から最後の製粉まで3~4時間の短時間の行程である。

工場の機械は9月1日から11月23日まで稼働するが、実際オートメ化された工場内では集中監視室で係員が大きな計器パネルを注視している姿しか見られない。最終工程を終えたでんぷんは、前述の巨大サイロに運ばれて袋詰め作業の日まで貯蔵される。

でんぷんの用途だが、利用は広範囲でさらに意外なところで使われている。食品ではソーセージ、かまぼこ、チクワ、さつま揚げ、中華そば、うどん類、シューマイの皮、菓子類にはビスケット、焼きパン、アイスクリーム、ケーキ、羊かん、チューイングガム、キャラメル、ベーキングパウダー、医薬品、切手用のり、粘着テープ、印刷インキなどさまざまである。最近では異性化糖としてジュースなどの清涼飲料にも使用されている。

最後に原料となるジャガイモだが、これは種類が比較的しぼられる。でんぷん質の多いコナフブキ(18~20%)と紅丸(15~18%)の2種類が圧倒的に多い。男爵やメークイン、キタアカリなどのいわゆる食用イモはでんぷん質が低くて加工には適さない。

なお、赤い紅丸や花標津という品種は花が白く、逆にメークインやコナフブキなどのいわゆる白イモほど花がピンク色をしているのがジャガイモの不思議でもある。(ひ)

 

<原生花園方向からは工場の貯蔵塔が白く見える>