2011年01月31日

流氷と遊ぶ、流氷を遊ぶ

海が氷で埋め尽くされる。波のないオホーツク海をはじめて見たときの驚きは、今も忘れられない。

想像を遙かに超えて、どこまでも白い雪原が、前日の荒れ狂う波しぶきをあげた海と同じだとは思えなかった。

流氷が押し寄せる海は、ここに生活するものにとっては「やっかいなもの」だった。

漁師は、海がなくなりやむなく船を陸に引き上げ、人気の観光船すら春まで休業であった。

流氷が来ると、寒さもひときわ強まり、知床の街は、波の音が消えるのと同時に街の営みも停止してしまったように静けさに包まれた。

20年前の知床は、冬は休業だった。

長い間、それはここ知床にとって当たり前の流氷の訪れだった。

そんな流氷の季節を、楽しんでみようか?と誰かが声を上げた。楽しむ?この寒い冬をか?

しかし、人はその流氷の美しさに気づき、冬の寒さをも楽しむことを始めた。

<オホーツク海を埋め尽くす流氷>

どこまでも続く白い大地をこの目で見たい、そして冬の寒さを楽しもうと「オーロラファンタジー」が開催され、知床でもっとも寒い季節に、しかも、夜に、外でイベントを楽しむことを始めた。

流氷は厄介者から、美しい、知床の冬の象徴へと変化した。 

流氷の上に乗るなんて、危険だ。そういわれる。 

しかし、乗ってみたい。危険だという流氷の上を歩いてみたい。

本当は、誰だって歩いてみたいさ。でも、危険なんだ。

だったら、危険ではない状態を作り、流氷で遊んでみないか?

厄介者だった流氷が、美しい知床の象徴になり、そして実際にふれて、体をゆだねて遊ぶ存在に変化してきた。

<その流氷で遊ぶ、そして体験する楽しさ>

流氷の上を歩き、割れた隙間の海に体を沈め、浮かび、遊ぶ。

今知床では、こうした流氷に関わる人の変化がある。 

「流氷ウォーク」は新しい知床の、流氷の季節だけの遊び。 

危険で、だけど魅力的な流氷との遊びを体験したいという人が増えている。

単なる遊びという枠から、体験した人は自然の厳しさと怖さも知る。

温暖化で流氷の到来が危惧される中で、いかにこの自然条件がすばらしいことかを知る人が増えるのはうれしいことだと思っている。(さ)


2011年01月24日

二ツ岩で三浦綾子は燃える流氷を見た

流氷はさまざまな色合いを持つ。一日の時刻や日差しによって微妙な色合いと光を放つのが魅力のひとつだ。

作家三浦綾子(故人)は赤い流氷を小説の中で描写している。三浦綾子のデビュー作長編「氷点」に続いて書かれた「続氷点」のラストの場面だ。

「氷点」は人間が持って生まれた罪、原罪を問う小説である。

「続氷点」は、物語の終末を網走に設定し、流氷原にヒロイン陽子を立たせている。

左手に帽子岩が見え、宿のすぐ前が流氷の海と書かれているから、そこはオホーツク水族館の前の海岸であろう。

 <ニツ岩>

三浦綾子が「続氷点」の執筆に先だって網走を訪れ、実際の流氷を眼にしたのは、1970年(昭和45)4月9日であった。

このことは三浦綾子没後、夫の三浦光世さんが書かれた『三浦綾子創作秘話』でようやく明らかになった。 

光世さんはその年の3月末、網走市の観光課に電話で聞くと、流氷はすべて沖に去ったという。

9日朝の電話で「流氷がまた戻りました」というので、すぐに夫妻は旭川発の汽車に乗り込み、夕刻網走に到着したと説明されている。 

小説の場面、『突如、ぽとりと地を滴らせたような真紅に流氷の一点が滲んだ。

<あるいは、氷原の底から、真紅の血が滲み出たといってよかった。

それは、あまりにも思いがけない情景だった。

――――やがて、その紅の色は、ぼとりと、サモンピンクに染められた氷原の上に、右から左へと同じ間隔を置いてふえて行く。とその血にも似た紅が、火炎のようにめらめらと燃えはじめた。

(流氷が!流氷が燃える!)』 陽子は血の滴るように流氷が滲んで行くのを見て、天からの血と思い、キリストが十字架に流した血潮を見ているような感動を覚える。

三浦文学の底に流れる信仰が、陽子に「なんと人間は小さな存在であろう」と思わせ、神の存在を肯定する場面は象徴的である。

流氷が紅く燃える現象は、三浦夫妻がホテルの窓から二時間も流氷原を見続けていたときに、間違いなく起こったと光世さんは書いている。

『――ラストの流氷が血の滴りのようになったり、焔のようにゆらめく情景を、全く架空のこと、単なる想像の所産と断定した女性がいた。何に書いていたかは忘れたが、極めて独断的な批評である。

たしかに容易に信じがたい事象ではあったが、私たち二人でまちがいなく目撃した事実である。

大体綾子は、自然現象を自分の想像によって、無理に変えて書いたことはない。

これだけは彼女の名誉のためにも、あえて力説しておきたい』

このことは三浦光世さんにお会いしたときに直接聞いた。

ところで私は燃える流氷に遭遇したことはない。

三浦夫妻の信仰が想像を絶する千載一遇の場面に立ち会わせたのかも知れない。

流氷という自然はそれほどにふしぎなもので、信仰という言葉でなければ解明できない神秘なものである。 (き)


2011年01月21日

温暖化を示す流氷原でスケートのり

1枚の写真がある。いや2枚だ。 

はるかの海別岳を背景にオホーツク海でスケートを乗る人がいる。

もう一枚はリンク状になっている流氷塊の合間でスケートを乗っている。そこは現在の商港付近で、ポンモイ海岸と思われる。 

海でスケートに乗るとはすごい人だと、写真を手に入れてから長い間「勇敢なスケーターやーい」と探していた。

氷原のリンクの向こうには流氷帯が見えている。流氷が到来して接岸しないうちに、海が海岸から凍って完全結氷したと思われる。

こうなると流氷が近寄ることができずに、リンク状態がしばらく続いたものだろう。

シャーベット状態になった海面が風にながされた姿でそのままの文様で凍りついているのが美しい。

 <氷原でスケート>

 

 

<氷原でスケート>

かつての網走はスケートが盛んであった。

昭和30年代には、知られた国体選手も出したほどの土地である。

氷上のスケーターは子どもでない。素人の遊びとは思われないフォームで滑っているではないか。これは練習風景に近い。

現在でも沿岸結氷は始まるし、一度接岸した流氷が離れて凍ることがある。だがとてもスケートを乗るほどの凍結は見られない。 

新聞などで探し続けた結果、このスケーターが突然判明した。すべっているのは遠藤さん兄弟で、この朝、海面が凍っているのを発見して滑りに出かけたという。

ポンモイ浜に近いところに家があった。予想通りスケート愛好の大人であった。表面は凹凸もなく快適に一時間ほど練習したという。 

スケート練習ができるほどの、リンクが海上に出現するほどシバレがきつかったのだろう。

とすると、この写真は昔懐かしいだけでなく、ポンモイ湾の変貌と温暖化をも示している貴重な写真といえる。(き)


2011年01月13日

流氷におびえた開拓者

<知床の流氷の海>

かつてオホーツク沿岸の住民にとって、流氷は到来でなく襲来であった。

これは戦後も知床開拓の農民にとっては、恐怖の対象であった。

知床五湖に近い幌別、岩尾別に地区に入植していた開拓民にとって、冬の間は、急病人やけが人が出ても、医者に診せることはできなかった。

冬期間は完全に交通が途絶され、開拓地は孤島に閉じこめられたと同じであった。 

当時の開拓者は語っている。

「流氷の去った岩尾別の浜から出る春一番の船に乗って、網走の病院に行った人は、生きて再び岩尾別の土を踏めなかった」。

それは冬の間は病人を運べない。

やっと病人を運ぶ春になったときには、病状が進み手遅れの状態だったからである。 

ある年の3月、老人が腹痛を起こした。

村人はウトロまで病人を船で運ぶことにした。

船にスキー、カンジキ、ロープを積みこみ病人を乗せて船をこぎ出した。

人々が流木を集めて浜にたき火をして病人を案じていたとき、なんと船が戻ってきた。

船は流氷にさえぎられて進むことができず、氷上に船を引っぱり上げて引いて進む。流氷が切れているところでは、また船を海に下ろす。 

途中若者のひとりが海に落ちた。

救いあげてふるえる若者を病人と一緒に寝かせ、石を焼いて水をかけたものをぼろ布につつんで湯たんぽ代わりに抱かせた。

しかし、ウトロの沖はまだ流氷が詰まっていた。ついに流氷はばまれて引き返してきたのだという。

その老人は結局医者に診てもらえず命を落としたという。

開拓地に死者が出ても、冬は荼毘(だび)にする墓地まで運ぶことができない。

家の前の雪をかき、巻きを積み上げて焼くという時代だった。

流氷を美しいもの、ロマンあふれるものと見ている現代が、恐怖の対象だったという時代も忘れまい。(き)


2011年01月04日

地元の人々が守る秘湯・越川温泉(根北峠)

 

<簡素な施設の温泉だが、文句なしの名湯である>

越川温泉は斜里と標津を結ぶ国道244号線沿いにあるが、ガイドブックなどにはあまり掲載されたことない小さな温泉だ。 

斜里町から約15キロ、根北峠の上り口の脇にある古びた民家のような建物が越川温泉だが、国道から少し奥まった場所にあり、なおかつ入口には温泉を示す看板などはない。 

ここは地元の人々によって運営され、周辺の温泉好きの方々が静かにお湯を楽しむ場所のようだ。そんな理由もあって、あえて目立つ看板を立てたりしないのだと思う。

入口の戸を開けると広い休憩場がある。ソファーやテーブルが置いてあって、くつろげる空間だ。床下には温泉のお湯が通っているらしくポカポカと暖かい。

ここは地元の方が湯上りにゆっくりとお喋りをするコミュニケーションの場所になっているようで、地元のお年寄りから、開拓時代の北海道の話を聞けることもある。

休憩所の奥に小さな脱衣所があり、そこで服を脱ぎ、温泉に入る。浴槽はコンクリートの打ちっぱなしで、お世辞にも立派とは言いがたいが、独特の味がある。

以前は浴室の仕切り壁があってないような半混浴という大らかな状態だったが、最近になって男女の浴槽の間に立派な壁が作られ、女性も利用しやすくなった。

泉温は約54度、かけ流しのお湯は文句なしに名湯。少し白濁したお湯に浸かると体の芯から暖まり、ひなびた手作りの温泉は秘湯と呼ぶのにふさわしい。

越川温泉の入浴料は200円。しかし、料金を徴収する管理人などはいないので、入浴の際に入口横の壷の中に200円を入れることになっている。

越川温泉は地元の方の善意によって運営されている。ゴミは置いていかないなど、マナーを守って入浴してほしい。(く)