2011年02月22日

ウトロにはいつ頃から人が住んでいたのだろう

<冬は流氷に埋め尽くされる知床だが住みやすかったのだろうか?>

世界自然遺産指定地に隣接するウトロには、現在は約1,400名の、世帯数で500世帯ほどの人が暮らし、学校は小中併置校なので同じ校舎で小学生と中学生が学んでいる。

産業は漁業、観光、農業。図書館のある斜里までは約40キロの距離があり、幹線道路は一本だけ。

知床半島の真ん中に位置して、平らな土地が少なく、街の中には大きな岩が点在(のこって)している。

知床という場所がクローズアップされてから、毎年大勢の観光を楽しむ人が訪れるようになりその数は年間170万人と言われている。

大きなホテルや民宿。そして温泉。

そんなウトロにはいったいいつ頃から人が住むようになったのだろう?

原始の自然とか秘境知床と言われてきたこの土地で人が住んだのはいつからなのだろうか。 

そんな疑問は、博物館で行われた発掘調査で解決される。

驚くことにウトロの街の中、あるいはカメ岩と呼ばれているチャシコツ岬に、あるいは川沿いに、街の真ん中にある神社山でも縄文時代の遺跡が見つかってる。

中には縄文早期の土器が発掘されている。

今から6~8000年も前にもうすでにウトロには人が住んでいたことになる。

その後、北から南下してきたと思われるオホーツク海沿岸の北方民族、そして近世でアイヌ民族。

ウトロには大昔から人が住める環境があったということだろう。

ウトロに住むアイヌのもっとも古い記録は松前藩の「津軽一統志」に、1669年のアイヌと和人の戦い(シャクシャインの戦い)にウトロから約80人のアイヌの応援が駆けつけたという記録が残っている。

その後、和人がウトロにやってきたのは1810年。アイヌと魚の交易を始めたとされている。

農業の開拓が始まったのは大正元年、福島からの入植。この入植を期にウトロは本格的に開拓が始まった。

こうしてみると記録に残る、和人の開拓はごく最近のこと。そのもっと前から、様々な人たちがこの地で暮らしてきたことが分かる。

街の中に残っている岩や川、毎日見ている風景が、かつて縄文時代の人たちも同じ風景を見ていたのだと思うと不思議な気がしてくる。

変わらない風景、変わらない自然は今も昔も貴重なものに違いない。(さ)


2011年02月17日

ブラキストンが踏破したポンモイの台地

トーマス・ライト・ブラキストン(1832~ 1891)と言っても、最近では忘れられがちだが、津軽海峡を境にして動物の分布が南北で違うというブラキストラインを発見した人物である。

この人イギリスで生まれ。軍人となったが、余暇に鳥や植物を採集して標本づくりをした。

軍人を止めてから函館に来て海運・製材業を起こしたが、その後なんと23年間も函館に住んだというから、半分は日本人みたいな動物学者であったのだろう。

函館では事業を行いながら鳥類の採取と研究、気象観測などを続けた。

<台町の丘>

この人が1869年(明治2)10月、網走を訪れた初めてのイギリス人であった。

しかも、ポンモイの柱状節理を見た人なのである。

それは「えぞ地の中の日本」という著書に書かれている。

『この辺りの海岸は実に美しい。岬が北の方角に遠くまで突き出ていて、網走湾沖の岩の小島、小島とよぶにふさわしいような島が岬の少し外側にほっそり立っている。

湾内に網走に着くすぐ手前の所に灰色の石から成る非常に変わった断崖がある。

それは裂け目によって方形の切り石状なので、遠くからだと玄武岩にあまりよく似ているため近くへ寄って見なければわからぬほどである。

高熱で焼かれたのであのような割れ方になったのだと思われる。

ピンク色を帯びた部分もあるかと思えば、ほかの色をしている部分もあり、なお緑色を帯びた黄色い部分から見れば硫黄が含まれていることがわかる。

この断崖は、鵜やそのほかの海鳥たちの憩いの場所であり、その糞が崖の方々を染めている』 これがポンモイの柱状節理あることは、その後台地に立って知床の山々を見たことが記されているから間違いない。

「眼下に整然と広がる海岸線とともに、秋の澄んだ空気を通してうっそうと樹木に覆われた地域がその間に見えて、美しい風景を形づくっていた」とも書いている。

それから140年近い。柱状節理は同じだが、美しい自然は同じとは言えないだろう。(き)


2011年02月08日

街の中にアザラシのいる網走

毎年冬になって流氷到来が近くなると、季節の風物詩のように話題になるのがアザラシである。

これはオホーツク沿岸でもあちこちで見られるのだが、街の中にアザラシがいるというのは網走だけである。

正確には街の中を流れる網走川で見られるのだが。 

市内に架かる網走橋、中央橋、新橋の欄干にもたれて、じっと川面を眺めている人影がある。

流氷の先発隊としてアザラシがやってきたのだ。

2、3頭のこともあれば、5、6頭のこともあるが近年は頭数が少なくなっている。

アザラシは獲物のカレイやチカ、ウグイなどの魚を求めて網走川に入り込む。

流氷の到来と川の結氷によって滞在の期間は違うが、次第に川を遡上して網走湖に入り込む。

網走湖口に近い所が獲物が多いらしい。

<06年の網走湖のアザラシ>

司馬遼太郎の街道を行く「オホーツク街道」には「町中のアザラシ」として次のように書かれている。

『「アザラシがきています」 とホテルできいた。

それもオホーツク海から網走川に入りこみ、なんと市街地を通って、ホテルのそばの網走湖に入っているのである。

――――――

ホテルの丘を降りると、国道三十九号になる。

なるほど、二頭のアザラシが寝そべっている。 

湖は、凍っている。国道三十九号に沿って網走川が流れ、湖水が川になって流れてゆくあたりだけが、水が動いているためか、凍っていない。 

アザラシはひろびろとした氷の原にいるのではなく、流れている水際にいる。

背後からキツネに襲われそうになると川にとびこむ。そのために水際にいる』。

アザラシはオホーツク海に流氷が到来すると氷上に戻り、子を産み育てる。

3月、海明けとともに北の海に帰っていくのだ。町なかのアザラシは時に、陸に上がりこみ道路をよちよち這っていたこともある。

雪原の林の中にいたのを保護して、村の駐在所に運ばれたこともある。

お巡りさんが頭を痛めて水槽に入れて保護して、水族館からの引き取りを待っている。などという新聞記事が伝えられたこともあった。 

アザラシが街なかの川にいて、その上空を白鳥の群れが飛んでいく光景が出現する街。

これほど自然豊かな所は、日本でもザラにはない。(き)