2011年03月14日

網走刑務所を代表する三眺山

網走番外地として、天下に名高い網走刑務所の位置する場所は、「網走市字三眺官有無番地」というのが正式である。

刑務所の所在地がなぜ三眺なのかというと、刑務所用地の中に標高121メートルの三眺山という山があって、その頂上から、網走湖、能取湖、オホーツク海の三つが眺められるからである。 

刑務所敷地内には今も三眺神社があって三眺神社祭が行われている。

かつては敷地内に三眺幼稚園という施設もあった。網走市民も三眺という地名にはなじみがあるが、由緒の場所、三眺山に出かけたことのある人は少ない。

なぜなら、刑務所敷地内は立ち入り禁止で、山とはいえ自由に入ることはできないからだ。 

2005年(平成17)秋、網走歴史の会は、刑務所からの特別許可を得て、「網走歴史探訪――紅葉の三眺山を歩く」という会を開いた。主催者は2、30人の参加者を予定していたが、申し込みが殺到し、140人が参加する大きな集まりになった。

 

  <三眺山頂上で>

三眺山は大曲橋を渡って国道沿いの自動車販売会社の向かいにある。林道を登って約1時間で頂上に立つ。三つの景観は樹木が茂り、網走湖だけしか見えないが、広大な景観と紅葉と湖水の美しさは網走を代表するに十分であった。

三眺山には1914年(大正3)に建てられた大きな石碑があり、三眺山と刻まれている。

明治の末からお偉い方の刑務所視察があると、必ず三眺山に案内したといわれ、刑務所職員の運動会、相撲大会、花見などが山頂で開かれていたという記録がある。

網走市民も昭和30年代には、小学校の遠足や花見などで自由に訪れていたという。

今回の参加者にはかつての職員、遠足に来た人などもいて、当時の思い出が語られ、刑務所と網走市民のつながりが懐かしく語られた。

囚人道路と呼ばれる中央道路の開削が、三眺山のふもとをめぐるようにして内陸へ向かってのびて行ったことからも、ここは網走にとって歴史的な場所である。(き)

 

 <昭和25年当時の三眺山への遠足>


2011年03月08日

拓殖軌道が内陸に走った時代

 <北見鉄道の小清水駅>

<東藻琴駅>

1925年(大正14)に国鉄釧網線の網走-斜里間が開通した後、住民の願いは内陸部への鉄道の延長だった。

とくに小清水町では鉄道のルートが町の本町を通らずに海岸線ルートになったため、その思いは強かった。

そこで1930年(昭和5年)に開業したのが「北見鉄道」である。

株式会社で止別-小清水間、約9キロを走る軽便鉄道だった。

これがこの地方の拓殖軌道の始まりだったが、残念ながら、3つの駅しかないこの鉄道は利用客が少なく1939年(昭和14)に廃止になった。

これに代わって、1942年(昭和17)に十勝軌道を経営する北海道精糖が古樋(現在の浜小清水)-小清水-水上間に「小清水軌道」を走らせた。

乗客のほか、木材、農産物、肥料などを輸送して住民の足として活躍した。

戦後になって物資の輸送がトラックに代わるにつれて経営が悪化。1952年に廃止となった。

東藻琴では1935年(昭和10)に藻琴までの15キロが北海道の直営事業として開通、ガソリンエンジンの軌道車が走った。

後に山内網走町長を組合長にして軌道運行組合を組織して運営した。

当初の目的は物資の輸送が重点で、乗客用にマッチ箱のような客車が後尾につながっていた。

乗客用のキップには「事故が起きても組合では責任をもちません」と書かれていた。

実際、満足に立っていることもできないほど天井が低かったという。 

この軌道はその後、支線を延ばし、東藻琴-東洋、さらに山園へと延長された。

特に奥地からのパルプ用の木材運搬に重要な役割をはたした。

域の子どもたちは学校の帰りなどに、空になった貨車に無断で飛び乗るなどして、住民に親しまれた軌道だが、その後、経営が悪化し、結局1964年(昭和39)に全線がなくなった。(ひ)


2011年03月01日

オホーツク人の謎とグルメな食生活

北の邪馬台国がいつか出現する。

いや、すでに出現しているのかも知れない。

オホーツク文化人、あるいはモヨロ人と呼ばれている古代の民族であるが、現在ではオホーツク人と呼ばれることが多い。

今から1500~1600年ほど前、オホーツク沿岸には氷海の狩猟者であるオホーツク人が定住していた。

この民族の遺跡は礼文、利尻島から稚内、枝幸、常呂、網走、知床半島、根室半島に至るまで、広い範囲に分布している。

しかし、代表的なのは網走市のモヨロ貝塚である。

モヨロ遺跡からは半地下式の住居跡をはじめ、モヨロ人の遺骨、オホーツク式土器など多くのものが発掘されていて、今なお発掘作業が続けられている。

この結果によっては、北の邪馬台国の全貌が浮かび上がってくるのではないかと、期待と夢が広がっている。

オホーツク人の最大の興味は、この民族はどこから来てどこへ行ったのかという謎である。

遺跡や土器の分析から見て、オホーツク文化はアムール川流域か、あるいはサハリンから南下して来た人々と推定される。

では、五、六百年という歴史的期間の後、まるで突然のように消滅したように見える謎がある。

内陸民族との交流で単独民族の特徴を失ってしまったのか。

あるいは気候変動などで弱体化していったのか。

オオホーツク人は流氷の民で、民族抗争で大陸から南下して来た人々であり、流氷原を渡来して北海道にたどり着き、また流氷原を大陸に向って北帰行をしていったのだという俗説を、私は(菊地)早くから唱えている。

<オホーツク式土器>

<オホーツク人の捕鯨図>

オホーツク人の食生活は興味深い。

海獣猟を得意としていた人々は、海の王者クジラを追いかけていた証拠の道具まで出土しているから、クジラ、イルカ、アザラシ、オットセイ、アシカ、シャチまでの海獣を食べていた。

貝塚からこれらの骨が出ている。

当然、これら海獣の油を採っていたと思われ、油炒め、唐揚げ、天ぷらまでも食していたのではないか。

多くの貝類、魚類の骨も多く、豊かな海からの恵みを十分受けていた食生活だった。

陸の動物であるクマ、シカ、イノシシ類、キツネ、ウサギ、鳥類なども狩猟していただけでなく、イヌ、ブタの飼育をしていたと思われる遺跡も発掘されている。

また、オオムギ、アワ、キビなどの穀物を食べていたらしい。

しかも、その穀物は栽培されていたという説も出ている。 

とすると、オホーツク人は豊富な海山の食物を手に入れた、グルメな食生活を満喫していたのかも知れない。

千五百年以上も前というと、想像できないような時代に見えるが、人間の歴史から見ると、ほんのちょっと前のことである。

現在の私たちの生活と結びつけて、オホーツク人の歴史を見てみよう。(き)