2011年08月29日

どう変わる道東の稲作地帯

米づくりの北限はどこかというと、道北では遠別町、道東では大空町女満別であるらしい。

女満別で最初に米作を手がけたのは1898年(明治31)に吉田甚松という人が本郷に来て始めたのが最初である。

彼は釧路集治監網走分監看守をやめて、4年ほど網走の嘉多山で農業をしていたが女満別の網走川流域の土地が肥沃だったために移住したとされている。

旧女満別町では吉田甚松を開拓の創始としている。

この頃の網走川流域は今よりも、もっと蛇行してゆっくりと流れる川だったが、春の雪どけや大雨が降った時にはたびたび大氾濫を引き起こした。

実際、女満別の農業は洪水との戦いの歴史だった。

今も本郷で水田農業を続ける1920年(大正9)生まれの江口一男さんも1935年(昭和10)の水害をよく覚えているという一人である。

美幌方面の築堤が次々に破壊されて、家族も高台に避難したが、どこが川なのかわからなくなった濁流のなかで、たくさんの大木と収穫して積み上げた無数の豆の山が流されていくのを見ていたという。

江口さんも代々の水田農家で現在は14町歩の水田と4町歩余りの野菜を作っている。

昔は温床づくりから田植え、稲刈り、すべて手作業だった。だから出面さん(今でいえばパート従業員というところか)の人数も必要だった。

美幌方面まで毎日送り迎えをした。昭和30年頃で1日の出面賃は米3升だったと記憶している。

冷害にも何度も見まわれた。田植えを終えた数日後に雪が降ったこともある。苗を作る温床にタンクにお湯を沸かしてまいたこともある。収量は1反当たり5~6俵だった。

今は機械化が進み、手作業は少なくなった。出面さんも必要がなくなった。水田1枚の面積もだんだん広くなった。

江口さんのところでは、とうとう2町5反もある1枚の田圃ができた。これはひょっとすると日本でいちばん広い田圃かもしれないという。それでも多収穫を望むと食味が落ちる、と現代稲作の難しさを語る。



<三輪トラックに乗った出面さんたち(昭和34年)>

女満別の農家は1965年には910世帯だったのが、2004年(平成16)には381世帯に減少した。

水田の面積は昔は1,500ヘクタールもあった のだが、減反政策で現在では260ヘクタールまでに減った。なんとこの数年で85%の水田がなくなったことになる。

かつては道東の稲作地帯といわれていた 女満別の水田は危機的な状況にある。(ひ)


<小学校の体験学習での田植え風景>

2011年08月22日

ポンモイ石切場の強制労働の証言

網走市街から鱒浦に向かう海岸をポンモイ(アイヌ語の小さな入り江)という。

ここに、かつてポンモイ石切場と呼ばれた柱状節理の採石場があった。現在は汚水処理場の施設がある。

 <ポンモイ石切り跡>

1942年(昭和17)頃からポンモイ石切場ではタコ労働(強制労働)による採石作業が急ピッチで進められていた。

太平洋戦争たけなわの頃、海軍航空隊美幌第二航空隊第二基地(現在の女満別空港の近く)の滑走路に敷くための採石が人力で行われていた。

日本人だけでなく、強制連行された朝鮮人、中国人が虐待を受けながら苛酷な労働を強いられていた。

しかし、当時の記録もなく実態は不明であった。手かがりとして網走市「正法寺」で扱った殉職者43人の名が過去帳にあるが、正式の名や出身地もなく遺族を知ることもできない。

昭和57年、37年ぶりに当時の内容が元労働者によって証言された。

長谷川金吾さんは、13歳のときから石工になった。

ポンモイ石切場に徴用で動員されたのは、1944年(昭和19)1月、20歳の時であった。

札幌から30人ほどの石工と共に汽車でやってきたという。

長谷川さんは徴兵検査で体格は甲種だったが、障害者(聾唖)であったため丙種合格となっていた。

若者たちが次々と召集されていく中で、障害者は非国民のレッテルを張られる時代だったから、徴用には喜び勇んで網走にやってきたという。

この夏に(2005年)札幌で長谷川金吾さんに会った。本人から直接聞いた(手話通訳で)当時の話の一部は次のようなものであった。

『朝4時に起こされ5時半には仕事に出た。日暮れまでびっしり働きずくめ。

食事は大豆入りのご飯にみそ汁一杯、漬け物一切れ、ゆっくり食べているとムチで叩かれた。自分の仕事場によろよろ戻った。栄養失調で見る見るやせた。

厳寒の中で、わらで作った手袋と靴で仕事をし、仕事の途中一分間くらいだけ、たき火に被さるようにして身体を暖めるので、服に火がついて大騒ぎをすることがたびたびあった。

タコ部屋は入り口にムシロを下げただけ、同じ棟の中に寝床は違ったが朝鮮人たちがいた。

朝鮮人はトロッコで石をはこび、貨車積みをさせられ、全く牛馬以下の扱いだった。幹部の棒が頭や身体にところかまわず飛んだ。

日本人より何倍もひどい扱いで、けがや病気でも働かされ惨めだった。

生きているままか死んでいるのかはっきりしないが、押し寄せた流氷の海に何人も投げ捨てられるのを見た。

見ているのを見つかって殴られたこともあった』 

札幌市在住の長谷川金吾さんは82歳になっていたが、お元気だった。

手話での語りは年齢を感じさせない迫力のあるもので、ポンモイ石切場の証言者として貴重な人物である。(き)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

<ポンモイ石山を語る長谷川さん>


2011年08月16日

競馬場の空に飛行機が飛んだ

女満別では昔、競馬がたいへん盛んだった。草競馬である。昔の農家には2,3頭の農耕馬を必ずといっていいほど飼っていた。

その馬を持ち寄って、部落対抗の競馬をやっていた。毎年、春と秋の年2回、5,60頭の馬が走り、大勢の家族連れで賑わった。

娯楽の少ない当時の若者たちにとっては何よりの楽しみのひとつで、青年たちは何日も前から競馬場の草を刈ったりして準備を進めた。大正から昭和初期の頃である。

その競馬場が1928年(昭和3年)に支庁管内唯一の公認競馬場に指定された。北海道畜産組合の運営で春と秋にそれぞれ3日間ずつ公式競馬が開催された。

しかし、この公認競馬もファンが増え始めると、より立地条件のいい北見(当時は野付牛)に移ることになった。

それから6年後、意外なところで、この競馬場を利用しようという動きが生まれる。昭和初期は冷害が何年も続いた頃である。

農事試験場場長の安東広太郎農学博士は、オホーツク海の流氷の勢力が冷害に大きな影響をもたらす、という学説を発表していたが、同時に飛行機による流氷観測を提案していた一人だった。

農林省は1934年(昭和9年)に博士の意見を取り入れ、実際に流氷観測の実施を決定した。安東博士に協力要請を受けた気象台では根岸錦蔵飛行士と関口鯉吉技師を道東地区に派遣し、オホーツク海に近く滑走路が取れる土地を探した。

このとき、飛行場の最適地として、競馬場として使われていた跡地30ヘクタールの平地が選ばれたのだった。女満別村議会はこの申し入れを受け、10年間の無償貸与を満場一致で採択した。


<競馬場の空に飛び上がった10式艦上偵察機>

翌1935年(昭和10年)春、根岸と関口が滑走路として使う予定のコースを点検すると、あちこちに大木の切り株があって、危険だということがわかった。

そこで、村では各戸から一人ずつ、延べ1,300人が切り株除去の労働奉仕に出て一週間の突貫工事で滑走路を整備した。

かくして3月23日、轟音のなかで村の青年たちが飛行機を後ろから押して走り、その力も限界に達した瞬間、機体がふわりと浮いた。最初の流氷観測の飛行機が競馬場の空に舞い上がった。

これまで飛行機など見たこともない村人たちは、競馬場を使うのだから、コースをぐるぐる回りながら飛んでいくのだろう、くらいにしか考えていなかったようである。

この時の飛行機は複葉単発の10式艦上偵察機で、海軍から払い下げを受け、分解して女満別まで貨車で運び組立てた。駐機場は厩舎を改造して利用した。

観測の方法は3つのゴム風船に赤いインクを入れ、流氷上に投下し、それを3日後に探して流氷の動きを記録し続けるという地味なものだったが、飛行士の根岸にとっては流氷原の上空を飛行することは決死の仕事だったようで、いつも操縦席には日本酒を一本携えていたという逸話が残されている。

この流氷観測は昭和17年まで8年間続けられた。 競馬場跡地に造った滑走路は、その後1942年(昭和17年)に軍に接収され「海軍航空隊美幌航空隊第二基地」として大規模に整備された。

また戦後、1956年(昭和31年)には町営の女満別空港として、初めて北日本航空の旅客機ダグラスDC3型機が飛び、不定期便ながら札幌丘珠空港と結ばれた。(ひ)

 

<吉田礼文元町長に寄贈された10式艦の模型>

2011年08月08日

原生花園の空襲で死んだ女の児

  

<紀子さんも祀られている慰霊碑>

原生花園にも戦争があって、一歳の女児泉井紀子(わくいのりこ)ちゃんが犠牲になったという歴史を伝えていきたい。
朔北のオホーツク、ハマナスの咲く砂嘴砂丘にも60年前に戦争があったのはなぜか。

太平洋戦争の末期、1945年(昭和20)7月14日と15日、北海道全域に空襲があった。
太平洋上のアメリカ航空母艦から発進した艦載機延べ300機が。北海道78市町村に襲来攻撃をかけた。
根室、釧路、室蘭などを主として1925人の犠牲者が出たのが、北海道空襲と呼ばれている。

このときの7月15日、艦載機グラマン4機が知床半島を越えて網走地方に襲来し、網走、斜里、常呂方面を攻撃し、犠牲者は15人となった。
その中の一人が泉井紀子ちゃんであった。

北見から斜里に向かう三両の列車が北浜駅を出て古樋(浜小清水)駅に向かう途中、現在の原生花園駅付近で突然グラマン機の攻撃を受けた。
乗客は7、80人、最後尾の車両に乗っていた泉井タオさんは、1歳7ヵ月の長女・紀子ちゃんをつれて、列車のトイレに入っていた。
紀子ちゃんに用を足させようとしたとき、バリバリッという音と共に青い火花が背の方から足下を走った。
瞬間紀子ちゃんは機関銃弾で下腹部を貫通されていた。

車掌が「列車が的になっているので外に出て待避せよ」と言う。
列車から飛び降りたタオさんは、飛び降りると夢中で生い茂るハマナスの下にもぐり込んだ。
しかし、紀子ちゃんの顔は見る見る白くなっていった。

敵機が去った頃、軍のトラックがやってきて負傷者を乗せて斜里へ向かった。
タオさんは斜里の病院へ行って、注射を受ければ息を吹き返すのだと思いこんでいた。
斜里の医院では注射もしてくれなかった。
息絶えていたのだ。

タオさんは死んだ子どもを抱いて、斜里駅からの列車に乗って札弦駅に降りた。
タオさんの家は、清里町神威南(当時上札弦)の農家だったが、夫は出征中だった。

こうして網走空襲の犠牲者は紀子ちゃんをふくめて、漁船員、鉄道員、少年兵など15人になったのである。

太平洋戦争はその一ヵ月後敗戦を迎える。
太平洋戦争では空襲、原爆など、一般市民の死者は60万人以上という。
日本の戦争犠牲者300万人、アジアの諸国の犠牲者2,000万人の中の一人として、紀子ちゃんの死を歴史にとどめなければならない。(き)


2011年08月01日

スカイスポーツの街、美幌


<美幌町のカントリーサインの図案はパラグライダーである>

<美幌峠から飛び立つパラグライダー>

現在、美幌町は道路の市町村境界に設置するカントリーサインに、パラグライダーをデザインしたものを使用し「スカイスポーツの街=美幌」を広くアピールしている。

「美幌町をスカイスポーツの拠点にして、町おこしをしてみよう」という話が持ち上がったのは平成元年のことである。

そこで「よし、やってみようか」と立ち上がったのが、美幌スカイスポーツクラブの会長を務める横山正造さんをはじめとする地元の有志だ。

早速、スカイダイビングの大会の誘致をしたが、整備が始まったばかりの航空公園には、まだ舗装された滑走路がない。

「急に大会が決まったので、大急ぎで滑走路を舗装して、何とかスカイダイビング大会を開催しました」と横山さんは当時を振り返るが、この大会の成功によって、美幌はスカイスポーツの街として歩み始めることになった。

スカイスポーツと美幌の組み合わせは偶発的に生まれたものではない。

かつて美幌町には海軍の航空隊が配備され、太平洋戦争開戦直後のマレー沖海戦では、美幌航空隊(乙空襲隊)の33機の戦闘機を含む日本海軍航空隊とイギリス艦隊が戦闘。「女王陛下の不沈艦」とまでいわれた戦艦「プリンス・オブ・ウェールズルズ」を撃沈し、それまでの戦争のセオリーであった「大艦巨砲主義」が終わり、航空機の時代が来たことを世界に知らしめた。

美幌に航空隊が配備された理由は、全国でも有数の日照率と空域資源の豊富さにあった。

つまり晴天の日が多く、飛行のために使える空が広かったのである。

現在もスカイスポーツに有利な環境は変わらず、美幌の空はウルトラ・ライトプレーンやグライダー、パラグライダー、ラジコン飛行機などを楽しむのには最適の場所だ。

「パラグライダーで飛んだ時の美幌峠の景観の素晴らしさはもちろんのこと、ウルトラライトプレーンやラジコン飛行機の愛好家たちも『こんなに自由にのびのびと飛べる場所はない』と大喜びしてくれます。

これからも、スカイスポーツの街として美幌を積極的にアピールしていきたいですが、今の課題は若い世代へのバトンタッチです。

美幌の若者たちに、もっと空の楽しさを伝えたい」 こう語りながら、横山さんが見上げた空は、今日もきれいに晴れ渡っていた。(く)