2011年10月31日
ワタリガラスの神秘性
ワシやタカの仲間はとても視力が良いというのはみなさんご存じのことだと思う。
では、カラス、今回紹介するワタリガラスも,おそらく視力が抜群なのだと思う。そして、彼らは言葉を持っていると思う。
そもそもワタリガラスって?どこにでも居るようなカラスではない。
知床にはハシボソガラスとハシブトガラスの2種類が一年中生息しているが、ワタリガラスは冬に渡ってくる。カラスの仲間では最大で北海道よりも北の方からやってくる。
きっと、北海道内でもワタリガラスが見られる地域は限られているのではないかと思う。
その限られた地域に知床がある。
さて、どうしてワタリガラスの視力が良いのか、と言うと。
流氷のやってきた知床の沿岸の海岸線に車を止めると、野生動物はこちらの気配をいち早く察知する。
夢中で食事をするエゾシカは顔を上げるだろうし、ハシボソガラスやハシブトガラスはぎゃーぎゃと騒ぐ。
なのに、いち早くこちらを見つけ飛んできてじっと観察を始めるのがワタリガラス。それから、その観察結果の報告を仲間に伝えるらしい。
これは、私の想像だけれども、かれらはいくつかの言葉を使い分け、侵入者の様子を伝える。
このワタリガラスは、北方圏の先住民族、あるいはヨーロッパでも多くの神話に登場し、天地創造の神として崇められている。
日本ではあまり馴染みのないカラスだけれど、実は同じように天地創造の神として存在する日本のヤタガラスが、このワタリガラスではないかという説もある。
いずれにしても、このワタリガラスを見ることができるのは冬の知床。流氷の海を乱舞するワシたちに混じって、思わず誰かが呼んでいるような声を出しながら優雅に飛ぶ姿。
じっくりと観察されるだけではなく、この鳥が天地創造の神と言われる確証を見極めてみてはいかがだろうか?
できれば知床の冬、双眼鏡を持っていると楽しさは倍になるはず。(さ)
2011年10月24日
美空ひばりと美幌峠
<ひばりの在りし日の姿を偲ぶ歌碑は、美幌峠の絶景の中に建てられた>
1986年9月1日、美空ひばりが志賀貢の作詞、岡千秋の作曲による「美幌峠」をシングル盤(カップリング曲は「恋港」)としてリリースした。
国民的歌手によるご当地ソングを大ヒットさせようと、美幌町ではレコードの発売を記念して、絵はがきの発行、カラオケ大会などを催し、街をあげてキャンペーンに協力した。
さらに、美空ひばり本人を呼んでコンサートを開催して、美幌町で「美幌峠」を歌ってもらうというプランも具体化しつつあった。
しかし、翌年の4月に美空ひばりが福岡の病院に緊急入院し、美幌町でのコンサートの話は白紙に戻ってしまった。
1988年4月11日、両側大腿骨骨頭懐死、慢性肝炎という難病を乗り越えて、美空ひばりは5万人の大観衆が見守る東京ドームのステージに立った。
「終わりなき旅」から「人生一路」まで全39曲を熱唱したが、奇跡のカムバックといわれたステージで「美幌峠」は披露されなかった。
その後、全国ツアーを行うなど歌手活動を再開した美空ひばりだが、1989年に入ると再び体調を崩し、6月24日に息を引き取った。
最後まで歌うことにこだわった生き様は「歌謡界の女王」の名にふさわしく、死の直後には女性初の国民栄誉賞を受賞し、美空ひばりの歌声は人々の心に末永くに記憶されることになった。
結局、美空ひばりは美幌で「美幌峠」を熱唱できなかったが、1990年に美幌峠の展望台に全国からの篤志によって、歌碑が設立された。
本物の歌声はもう聴けないが「美幌峠」の歌詞を刻み込んだ歌碑によって、美幌町と美空ひばりの関係も永遠のものとなったのである。(く)
2011年10月17日
降水量70ミリで閉ざされる知床へのゲート
北海道東部の地図を思い浮かべてほしい。
オホーツク海の東に突き出た知床半島が北海道本体からクッと曲がっている箇所、どこからが半島ですか?と言う問いかけがあるならば、誰もがその場所から線を引くであろう場所が、日の出地区。
チップドマリという地名をそのまま店の名前にした喫茶店のある場所。小さな駐車スペースと、公衆電話。すばらしい夕陽が自慢できるこの場所がここから、知床半島が始まるのだと言う区切りの場所でもある。
半島へ向けて走る車、半島を走ってきて一息つく車が止まっていることが多い。
この場所をウトロ側に少し移動した場所に、大きくて頑丈なゲートがある。この場所からウトロの街の入り口にあるゲートまでの17,7kmは、国道の通行規制区間に指定されている。
異常気象時に被害の発生する地域に指定され事前に降雨量の基準が決められている区間になる。
その基準となる降雨量が、70ミリ。
この70ミリという数字は、雨が降り始めてから70ミリを超えると通行止めにする基準であり、もしも、12時間降り続いて70ミリに達したり、あるいは短時間に集中豪雨のように70ミリの降雨量になった場合は、この17,7kmの区間は通行止めになるのである。
では、もしも雨が降り続き、60ミリになり、その後4時間雨が止んでいたとしよう。4時間以上雨が止んでいたら、今までの60ミリの降雨量はリセットされる。
つまり、0からのスタートになるのである。
地図をごらんいただくとわかるが、知床へ向かう道路はこの国道だけであり、半島の向こう側、羅臼町へ通じる道路は10月から翌年5月までは冬期間の通行止めになる。つまり、この道路だけしかないのである。
年に多いときで数回の通行止めがある。
一度、閉鎖になると数時間から状況によっては数十時間の通行止めになる。観光できた人も、生活する人も安全のために通行は禁止されゲートが閉まる。
知床で大雨が降ったときは、こんな情報にも耳をすまさなくてはならない。それもまた、知床の魅力か。(さ)
2011年10月11日
道なき峠を越えて網走監獄へ(野上峠)
1891年(明治21)に「釧路近くにある標茶集治監を廃止し、網走分監を開設する。よって囚人を網走に移送せよ」という命令が明治政府から発せられた。
オホーツク海に面した小さな漁村であった網走が、新たな刑務所建設の地に選ばれた主な理由は、網走と札幌を結ぶ中央道路の建設、政情不安で本州の刑務所では収まりきらなくなった政治犯と凶悪犯の収容、刑務所付近の肥沃な土地と豊かな山林を利用した自給自足できる農業刑務所作りだったとされている。
まもなく、囚人の移送が始まったが、当時の標茶集治監は1600人の囚人、200名の刑務職員とその家族600名の合計約2400名の人口を抱える大所帯であった。
さらに網走と標茶の間には立派な道路などはなく、道脇の草を刈った程度の踏み分け道があっただけである。そんな状況下での囚人の移送は困難を極めた。
移送は囚人50人を一組として、標茶から網走までの約百キロをわずか2日間で移動するというハードスケジュールで行われた。
当時から硫黄の採取が盛んに行われていた標茶から硫黄山までは道路が整備されていたが、道はやがて細くなり、クマザサと鬱蒼とした原生林に覆われた野上峠にさしかかる。
「お前たちの中には、この機会に乗じて脱走を企てている奴らもいるだろう。しかし、この峠の周辺には凶暴なヒグマや狼が数多く潜んでいる。
たとえ我々から逃げ延びることができても、下界に降りる前にきっと食い殺されてしまうだろう。
脱走という愚かなことを考えるよりも、網走で刑期を終えるほうが命のためだぞ」 看守長は野上峠越えを前に休憩する囚人たちに、このように声をかけたという。
当時の野上峠周辺は凶悪犯を震え上がらせるほど原始の自然に覆われた場所で、この話に恐れをなしたのか何度かに分けて行われた囚人の移送中、脱走者はついに出なかったという。
今では網走-標茶間は車だと2時間程度で移動できるが、わずか百年前には想像を絶するような過酷な自然の中で、徒歩による刑務所の大移動が行われていた。
そして、北海道の主要道路の多くは明治時代に囚人たちが作った道路が基となっている。(く)
2011年10月03日
美幌の銘菓-甘納豆
美幌グランドホテルの道路向かいにある路地を少し入った場所に、大谷甘納豆店はあった。
昔の町工場を思わせる場所で、知る人ぞ知る美幌名産の甘納豆が作られているのだ。
原料には美幌特産の白花豆、大正金時、大粒の小豆を使い、同じく町内の製糖工場でビート(砂糖大根)から作られたグラニュー糖で、どこか懐かしさのある甘さに味付けされる。
保存料などの添加物は一切使わず、昔ながらの製法で作られた甘納豆は、口に入れると上品な甘さが口に広がり、その味は銘菓と呼ぶにふさわしいものだ。
大谷甘納豆店の金時、白花、小豆の三種類の甘納豆は美幌駅構内の「ぽっぽ屋」などでも購入可能だが、製造元を訪ねれば100グラム単位で計り売りをしてくれる。
派手なパッケージもなければ、手作りや地元産、無添加などといった宣伝文句も掲げない。
「食べてみれば分かる」と静かに主張する大谷甘納豆店の甘納豆は、過剰な宣伝に溢れた現代において、ある種の清々しささえ感じるお菓子である。(く)





