2012年01月30日

知床の名所・もう一つの名前と時代

知床の名所として人気の高い場所の一つに「フレペの滝」がある。

切り立った岩から水が海へ流れ落ちる。岩肌に幾筋も流れる様子をたとえて「乙女の涙」とも呼ばれている。

地元、ウトロではこちらの名前で呼ばれる方が多いかも知れない。

さて、この名前、いつからこのように呼ばれることになったのだろうか?

地元の人に聞いてみると昭和50年代の知床ブームにカニ族と呼ばれる人たちが地元のユースホステルを利用して、たくさんの名所を訪れ、あるいは名所を作ってきた歴史がある。 

昭和38年にオープンした知床ユースホステルなど、知床には3カ所のユースホステルがあった。(現在は岩尾別ユースホステルのみ)そこを訪れていた宿泊客(ホステラー)がフレペの滝を「乙女の涙」と呼び始めたらしい。 

乙女の涙の滝の近くには、もう一つ彼らの名付けた滝がある。

危険だからと今はオープンにはされていないが、「男の涙」と呼ばれる滝である。

地元の人は、この滝のことを「カドワキの沢」と呼ばれていたことを知っている人が多い。

昔、この土地に入植していた人の名前が沢の名前になっている。カドワキさんはこの沢で水くみをしていたという。

近所の人も水くみに行っていたという。 

隣のフレペの滝を「乙女の涙」と呼び、この沢を「男の涙」と呼んだ当時のホステラー。

他にも、たくさんの場所に、様々な名前が付けられて、そこを訪れることを楽しんでいたのだろう。 

現在では「フレペの滝(乙女の涙)」と呼ばれるまでに至った、この名前の時代の背景が面白い。

新しい取り組みとしての呼び名になっているエコツーリズムも、実はこの時代の旅の形が、まさしくエコツーリズムだったのではないかと思う。

現在のように大勢が列を作って歩くのではない旅の原点が、こうした名前を付けながら、仲間と歩きまわった人々の時代に残されている。

知床が大好きで、ユースホステルに集った人たちが付けた知床の名所。

世界自然遺産に登録された知床を見ながら彼らは今頃、ほろ苦くもくすぐったい思いをしているかも知れない。(さ)


2012年01月25日

我が町に「君の名は」がやってきた

<「君の名は」の映画ポスターまだテレビがない時代に映画は国民的娯楽であった>

サンフランシスコ条約が調印され、日本がGHQの占領下から独立国として本格的に戦後復興へと歩み始めた1951年、あるラジオドラマが爆発的な人気を得ていた。

この年の4月から毎週木曜日に放送が始まったNHKの連続ラジオドラマ「君の名は」である。  

「忘却とは忘れ去ることなり、忘れ得ずして忘却を誓う心の悲しさよ」というナレーションで始まる、せつない悲恋の世界を描いた「君の名は」は、放送中に銭湯の女湯から人がいなかったという逸話を残すほどの視聴率を上げた。  

二年間の放送が終了すると、松竹は「この熱が冷めぬうちに」と「君の名を」をすかさず映画化。

ヒロインの氏家真知子役に岸恵子、恋人の後宮春樹役に佐田啓二を抜擢し、第一部が全国で大ヒットする中、続編である第二部のロケが美幌町で敢行された。   

1953年9月27日、主演の岸恵子、佐田啓二を含むロケ隊総勢40名が最終列車で美幌駅に到着した。

一行を待ち受けていたのは、夜の美幌駅前を埋め尽くす歓迎の人並みだった。

ロケ隊がホームに降り立つと、待ちかねた群集は半ばパニック状態になり、岸恵子と佐田啓二は駅の裏口から脱出。

宿舎である旅館に向かうと、そこにも千人を越える群集が押し寄せていた。

行き場を失くした2人は町長公宅に一時退避し、この難から逃れた。  

いきなり美幌町民の手荒い歓迎を受けた「君の名は」のロケ隊だが、翌日から始まった約一週間にわたる美幌ロケは天候にも恵まれ、紅葉に包まれた美幌峠、美幌高校のポプラ並木などをバックにして順調に撮影が進んだ。  

映画「君の名は」は1954年に公開された第三部で完結し、その後に総集編も製作されるほどの大ヒットになった。

美幌峠も「君の名は」によって日本全国知れ渡る景勝地となり、映画公開の翌年の美幌町への観光客の入れ込み数は前年比の三倍近くにまで急増したという。(く)


2012年01月17日

斜里平野に残る防風林は原生林

<山と畑と防風林が斜里の特徴>

斜里平野を一望できる「深呼吸の丘」から見渡すと斜里岳のすそ野の広さ、オホーツク海、そして防風林によって区分けされた幾何学模様がこの景色の大きな魅力となっている。

北海道の北海道らしい風景を想像したとき、この防風林は欠かせないポイントである。

農家の人たちが畑を風から守るために、あるいは境界のためにカラマツやポプラ、シラカバを植えて育ててきた。

しかし、斜里平野ではかつて、農地開拓の人たちが入植する前に、この斜里平野を覆っていた原生林を帯状に残して防風林として利用している部分が多い。

当然、幅は広い。所々は道路で切断されている。

この防風林は、個人の農地ではなく管理するのは林野庁。つまり国有林なのである。

その防風林には、季節になるとオオバナノエンレイソウやオオウバユリと言った広い畑作地帯では見ることの少なくなった植物も健全に残っている。

もちろん、樹木の種類も豊富で美しい。小さな動物にとっても貴重な空間である。

斜里町の農業施設でもある「みどり工房しゃり」はこの防風林を活かしてキャンプ場を設置している。広い芝生と、様々な樹木の防風林の組み合わせがすばらしく、さらにはその防風林の中を散策できる木道も設置されている。

この防風林には湿地もあり、一歩中へはいるとかつての「森」が広がるのだ。とても短い散策道路ではあるけれど多様な樹木の木漏れ日と葉っぱの音が心地よい。

北海道には「里山」の歴史は少ない。残念ながら、農地開拓の事業の中で切り開かれて森は消えていった。

人の営みと隣接する森が少ないが、斜里の防風林はまさに、里山の役割を果たしていると思う。住んでいる人にとっては当たり前の環境なのだ。

もう一度、斜里平野を俯瞰してほしい。

パッチワークのように広がる平野の中にあって、層の厚い緑の帯をたどれば、斜里岳のすそ野からオホーツク海をつないでいる。

こんなに立派な防風林がここにはあることをあらためて自慢したい。(さ)


2012年01月11日

藻琴山の名水、二ヶ所の銀嶺水(小清水峠)

阿寒国立公園内にそびえ立つ標高千メートルの藻琴山は、なだらかの山容を持ち、登山の対象としても親しまれている山である。

さらに、この山からの湧水は麓へと豊富に湧き出し、網走市や大空町の水道水の水源としても利用されている。

そんな藻琴山の八合目あたりで、ひっそりと湧き出す名水が銀嶺水である。

大空町(東藻琴村市街)から道道102号線を小清水峠、川湯方面に向かうと、やがて上り坂の峠道が始まる。

しばらく走ると左手に斜里岳の美しい姿が見渡せるパーキングエリアが現れ、その向かいに「藻琴山林道」と書かれた標識がある。

ここが銀嶺水へと続く林道の入り口だ。

林道に入るとすぐにエゾシカの侵入を防ぐゲートがあるが、鍵はかかっていない。

この手でゲートを開け、銀嶺水の湧き出る八合目を目指す。だたし、通過した後は必ずゲートを閉めるのを忘れないようにしてほしい。

林道を約3キロ走ると、若干の駐車スペースのある藻琴山八合目に着く。

ここから頂上までは徒歩で約20分。実はこの林道、藻琴山登山の最短ルートになるが、あまりにも登山道が短すぎるために利用する人が少ない。

駐車スペースの奥にある階段を下ると、山小屋「銀嶺山荘」があり、その手前の水飲み場が銀嶺水だ。

重ねられた岩の間からあふれ出る水は冷涼にして美味。山奥で湧き出る銀嶺水だが、一度は訪ねる価値のある東オホーツクの名水スポットだ。

実はこの名水をもっと手軽に味わえる場所がある。芝桜で有名な藻琴山温泉芝桜公園の中を散策すると、銀嶺水と書かれた水飲み場が見つかる。

こちらの水源はどうやら水道水らしいが、最初に書いたように大空町の水源地は藻琴山の湧水地。つまり、水源はどちらの銀嶺水も同じだ。

口に含んでみると、塩素臭さもなく、銀嶺水が手軽に楽しめる場所としておすすめできる。


2012年01月06日

濤沸湖で南極越冬訓練が行われた

原生花園と白鳥飛来地として有名な濤沸湖が、南極ブームに沸いたのは、50年も前の1956年(昭和31)の冬のことだった。

氷結した濤沸湖の氷上で、南極観測隊20人が3週間耐寒訓練を行ったのを、見物に出かけた人が7万人もいたというのだ。

当時網走市の人口が3万人だから、他町村からの見物人も多かったのだろう。

日本が初めて南極観測に参加したのは、昭和31年秋だが、これを控えて濤沸湖を南極のプリンス・ハラルドに見立てて、機材の運搬、設営、雪上車、飛行機のテスト、観測訓練、スキー訓練などを行っていた。

観測隊の強化合宿だった。耐寒だけなら道内の内陸地の方が適地だが、広い氷上と流氷のオホーツク海がそばにあることから選ばれたのだ。 

1月25日から始まった訓練に当たって、網走市では訓練後援会をつくり、歓迎アーチ、歓迎幕「歓迎・南極探検隊総合訓練」のポスターづくりをするやら、出迎え、物品の買い入れ、馬橇の雇い入れなどの世話をし、現地北浜では協力会を作るなどして、網走市上げての協力態勢をとった。

濤沸湖上に宿舎、観測所、発電所、トイレ、無線アンテナなどが見る間にたち並ぶ。

湖上をトラック、ハイヤー、馬橇などが走り回る。見物人が群れをなすというにぎわいだった。

当時濤沸湖対岸の農村では冬は馬橇で湖上を行き来していたのだが、その馬橇までもが寄り道して見学する一大観光地に変わってしまった。

ところが、南極の条件や気象にいちばん近いとして選ばれた濤沸湖だったが、この年なんと暖冬だったのだ。

流氷の到来も遅れ、毎日おだやかな日が続き、天気が良すぎて観測器械の耐寒テストはできず、防寒服の試作も汗をかくばかりの有様だった。

2月10日に訓練終了。観測隊は15日には網走を離れた。

この間網走市内では永田観測隊長らの後援会を開催したり、市長主催のお別れパーティをするなど、期間中はにぎわった。

観測隊にとっては訓練結果はほどほどだったらしい。

だいたい、南極探検なのか、南極観測なのか新聞報道でも違いがあったほどで、最初の南極行きということで日本中が沸いたという時代だった。

網走市民にとっても大事件で、当時の有末市長は「観光都市として発展するために、大きな宣伝になり網走に新生面を開く糸口になった」と感謝を述べている。

網走市で最初で最大の文化的行事と報道された耐寒訓練が、すでに市民に忘れられて久しい。

冬の気象もおだやかで、温暖化はますます進んでいる。(き)