2012年02月27日

コミュニティホールに変身する議場

大空町町議会の議場は、全国から関係者の見学が絶えないユニークな構造である。

なんと議場が、ある時にはコミュニティホールに変身するという仕掛けなのだ。

議場のある役場庁舎は1985年(昭和60)に建てられたものだが、助役を中心にしたスタッフのあいだで「1年のうち議会が開かれるのは2週間程度、それ以外の期間、何の利用もしないのはもったいない」という発想から生まれた。

議場はかつては自治会長の会議や町職員の婚礼にも使われたことがある。そういうコミュニティ施設として活用された。

町長にその話をすると、北欧に視察に行ったときに、自治体の庁舎がそういう機能を持っている町を見た、とすぐさま賛同した。

町民が議場を多目的に活用することによって、これまで近寄りがたい場所だったところに親しみを感じてくれるのではないか。

出来上がった議場は、一見どこの自治体にもある風景であるが、ボタン操作で30分ほどで小ホールに変身する。議長席の床が油圧装置で地下に沈み床全体が横にスライドする。

その後、ステーシ用の床がせり上がってくる。18ある議員席も同じように床とともに地下へ。理事者席も床パネルに乗せて地下へ移動する。この段階で座席なしのフラットな自由度の高いホールになる。

さて、次に座席ありの小ホールにするには、議場後部の壁を開いて5段の固定席を中央に出す。ロールバックチェアスタンドと呼ばれるもので、もちろん電動式で背もたれが起きあがる。

これが85席、ほかに同じような移動席が76席、もともとある傍聴席が34席、合計195席のホールに変身する。すべてが全自動というわけにはいかないが、数人の係員で十分対応ができる。

ここではコンサート、講演会などこれまで住民主催の催しが何度も行われている。1988年には「北海道まちづくり百選」に入選したこの施設を「議事堂文化ホール」と名付けている。(ひ)

 <町議会議場>

 <コミュニティホールで開かれたコンサート>

<議事堂文化ホールの構造図>


2012年02月22日

マコイの牧場に義経が陣地を作った・・・話

国道334号が知床半島の海岸線を走りだしてしばらくたったところ、少し開けた地形の場所に小さな牧場がある。

ホルスタインを放牧している風景は、知床とは違った北海動的な風景。

しかし、春先などは放牧しているはずのホルスタインの姿よりも、褐色のエゾシカの数の方が多いこともある。

時々、エゾシカの放牧場と思う人がいるのも頷ける。

このあたりをマコイ(真鯉)(アイヌ語でマクオイ・奥 深い所)と言い、昭和44年まで学校もあった地域です。

学校のあったところが、ちょうど牧場を経営しているあたり。現在のような道路はもちろんなく、高台の方で農業をしていた家の子供たちは急峻な坂を下りて、学校に通っていたと言う。

さて、このマコイ地区からオシンコシン(オシュンクウシ・そこにエゾマツの群生するところ)までの間には、源義経の話が残っている。

義経といえば、全国各地にその足跡にまつわる話が残っていて、大きな話では彼は蒙古に渡りジンギスカンだったとか。

北海道各地にもその話は至る所にあるが、この知床にもその話が残っていることに驚く。

オシンコシンの近くに義経が上陸した話。

義経が野宿をした場所。

義経の船が帆を乾かした場所、など、アイヌ語の地名とともに、随所にそのような話が多い。

マコイ地区の現在は牧場になっている場所では、義経は合戦をした際に幕を張ったところ、との話が残っている。

誰と合戦をしたのだろうか?幕、すなわちここマコイに義経は陣地を作ったという。

その話の真意はさておき、アイヌの人たちの話の中に登場する義経の伝説。

知床半島のアイヌの暮らしの中にも和人との軋轢や争いが生じてきた時期。

都を追われた義経の話が当時のアイヌの人たちにどのように広まったのか、「奥、深い所」と言われる知床半島のマコイ地区での話に、義経伝説の深さと、アイヌの人たちが受けてきたであろう理不尽な扱いの歴史を感じる。(さ)


2012年02月14日

住所地名のアイヌ語とその意味と誇り

知床へ向かって走るドライブ道路。その道路沿いにはいくつかの町や集落が点在する。

最近は市町村合併で新しい町の名前や市の名前が生まれている昨今、いろいろな思いをこめて付けられる新しい名前の住所が誕生している。

知床、斜里町では現在はまだ合併の予定はないが、今回の合併で、地域の名前について考える機会が多かった。 

知床の地名は、自然景観とその環境、そして音が魅力だ。

なぜなら、その地名、住所のほとんどがアイヌの人たちが付けた名前に由来するからだ。

斜里から知床まで、住所として登録されているいくつかの地名を紹介しよう。

住所と区切ったのは、地名や河川名を入れるとここではとても紹介しきれないから。

それほど、知床半島にはたくさんのアイヌ語の地名が残っている。

  • 斜里(シャリ)サル 葦原 この意味からも斜里平野、斜里川の河口付近には葦が茂っていたことが分かる。
  • 以久科(イクシナ)エクシナペッ そこを突き抜けている川現在も残る幾品川沿いに広がった集落
  •  朱円(シュエン)シュマトカリ 石(浜)の手前、円は斜里の開拓でも歴史が古く、道路沿いの樹木防風林や学校敷地内の桜は名所になっている
  •  真鯉(マコイ)マクオイ 奥深いところ、現在は酪農を行っている牧場であるが、別ページにも掲載されているように義経の伝説もあるところ
  •  ウトロ(宇登呂)ウトルチクシ その間を我々が通る、以前は漢字が使われていましたが、現在は学校名も含めてカタカナ表記になりました
  •  岩尾別(イワオベツ)イワゥペッ 硫黄川、戦前は「岩宇別」と書かれていた

最近ではあまりアイヌ語の地名は使われなくなったが、ここ知床ではまだまだ、地元の人たちもアイヌ語の地名を使っている。

もう、わざわざ和名にする必要もここにはない。

そんな地名がたくさん残っていることが知床の誇りでもある。(さ)


東オホーツク百の話 at 21:45 | PermalinkComments( 0 )TrackBack( 0 )

2012年02月06日

練習機「白菊」不時着の歴史

1945年(昭和20)7月20日午前10頃、美幌海軍航空隊女満別飛行場を離陸した「15試機練」という単発機が、エトロフ、クナシリに向かって原生花園から止別海岸上空をすぎていた。

これは女満別基地の練習機で「白菊」という機名であった。

機長は山本海軍少佐、操縦員は佐藤欣郎海軍中尉、偵察員が海軍2等兵曹大津昭だった。 

機は知床連峰を越える態勢で上昇を始めたとき、エンジンが不調になったため、旋回して基地に戻る態勢をとった。

しかし、高度は下がりヨシ原の湿地に不時着した。機体は沼に機首をつっこみ、逆立ちになって腹を見せていた。

大津兵曹は機体を抜け出し泥の中を土手の上にはい出た。そこは現在の斜里町大栄(大栄小学校付近)の国道から海岸方向への場所だった。 

大津兵曹は通りかかった女性の自転車の後ろに乗せてもらい国道に出て、そこから農家の馬車で斜里の警察へたどり着いたという。

結局、山本、佐藤の上官二人は現地で死亡、大津兵曹だけが生きのびたのである。

そのため、この不時着事故の経過だけが、後に学徒兵の佐藤中尉を書いた記録として残っている。

美幌海軍航空隊の美幌、女満別飛行場から飛び立った飛行機の事故は、当時目撃した住民から伝えられている。 

大栄の湿地には、アルコール実験の飛行機も不時着した。

美幌美禽の山に戦闘機墜落。美幌報徳の畑に爆撃機が不時着。

呼人の畑地に試験飛行中の機が不時着。

斜里日の出の海岸に練習機墜落。網走湖に練習機墜落。

このほか5件の事故が伝えられているが、いずれも風聞である。

誰々が死亡したのか。どれだけの兵士が命を失ったのか、当時の軍事機密、戦後の資料紛失などで今なお闇のなかである。 

「白菊」の搭乗員だった大津昭さんは、昭和60年頃に本州からやってきて、ひっそりと大栄地区を訪れた。

整然としたビート畑に変わった現地で、ひとり立ちつくしていたという。

太平洋戦争敗戦近い頃、劣悪な条件下で戦い、死んでいかなければならなかった若者たちが、東オホーツクにもいたのである。(き)