シーニックバイウェイとは
英語で「景色」を意味するシーン(SCENE)と、「わき道」を意味するバイウエイ(BYWAY)の組み合わせ。
直訳すると「景色のいい道路」ですが、それは一面に過ぎません。シーニックバイウェイ北海道は、「自分たち地域を、自らの意識と行動で、より魅力的にすること」で、その柱は「美しい景観づくり」「活力ある地域づくり」「魅力ある観光ですが、空間づくり」の3つです。
自分たちが住んでいる地域を、「もっと良くしたい」「もっと知ってもらいたい」「来た人に好きになって欲しい」・・・そんな想いがシーニックバイウェイ北海道の原点です。2003年から2年間の検討・試行期間を経て、2005年から本格的にスタートしました。
現在、正式ルートとして、
- 支笏洞爺ニセコルート
- 大雪・富良野ルート
- 東オホーツクシーニックバイウェイルート
- 宗谷シーニックバイウェイ
- 函館・大沼・噴火湾ルート
- 釧路湿原・阿寒・摩周ルート
の6つのルートが指定を受け、それぞれの地域で様々な活動を行っています。
東オホーツクシーニックバイウエイルートとは
私たちの東オホーツクシーニックバイウエイルートは、世界自然遺産の知床や、ラムサール条約に登録された涛沸(トーフツ)湖、阿寒国立公園など4つの自然公園を有する広大な畑地景観、野趣あふれる山岳、白鳥が飛来する湖沼、原生花園、豊富な味覚、明瞭な四季など北海道観光のよさが凝縮されている地域です。
また、我が国で唯一“流氷”がおとずれる海「オホーツク海」に囲まれて、人々の心を潤し、感動を与えてくれる憧れの地として、道内外から多くの観光客が訪れています。
行政エリアは、1市5町(美幌町、大空町、網走市、小清水町、清里町、斜里町)からなり、そのエリア規模は、東京都の約1.2倍もあります。 その広域エリアに、海岸ルートが中心の「知床・流氷ステージ」、田園地帯を中心とした「知床・田園ステージ」、6つの峠からなる「知床・山岳ステージ」という3つの主要ステージを設け、「ロマンティックヒーリング・風を感じて走る道」をテーマとして、現在48の活動団体が連携して活動を行っています。
網走市 活力あるオホーツクの都市
網走は北海道を代表する観光地。網走刑務所の所在地というイメージが定着している。
たしかに1890年(明治23)に、網走囚人宿泊所が設置され、翌24年に中央道路(網走ー旭川間)が開かれるとともに、内陸への交通、屯田兵の入植などが増加し、それにともない発展した町である。刑務所の歴史を「博物館網走監獄」(大曲)が、展示し、網走観光最大の入館者数を記録しているが、未開の地を受刑者が切り拓いた歴史は、否応なく学ばなくてはならない。
しかし、網走を訪れた人々が必ず口にするのは、想像以上の明るい街であり、大自然の景観のすばらしさである。これはオホーツク海と網走湾を取り囲むような、世界自然遺産の知床連峰の壮大な眺めと、五つの湖沼を持つ海・山・湖の自然と、豊富な食材という恵まれた土地であるからだ。年間観光客200万人、特に冬の流氷観光の拠点としての網走は、我が国屈指の観光地であると言っていい。
美幌町 天下の絶景 美幌峠
美幌町は網走支庁の中央部、北見市と網走市の中間あたりに位置し、南には釧路へと続く美幌峠があり、多くの道路が町内で交差することから交通の要所としても栄えてきた。
町名はアイヌ語の「ピ・ポロ」に由来し「水が多く・大いなる場所」という意味がある。その名の通り町内には大小60本もの川が流れ、中でも屈斜路湖の外輪山を水源とする美幌川は、平成15年に清流日本一に指定されたほどの水質を誇る川だ。
人口約2万2千人の美幌町の主幹産業は農業。なだらかな起伏が続く盆地の地形と、町の中を流れる美幌川、網走川の両側に広がる肥沃な土地を有する大地からはじゃがいも、小麦、ビートなどが主要な作物として生産されている。
大空町 花と音楽のまち&ノンキーランド
大空町は2006年(平成18年)3月31日、女満別町と東藻琴村が合併してできた新しい町である。
この二つの街はもともとは網走町に属していたが、女満別は大正10年、東藻琴は昭和22年にそれぞれ分村独立した。その分村した町同士の合併ということになる。
空港のある女満別はオホーツクの空の玄関口として知られている。年間100万人の利用客がある女満別空港は、2,500メートルに滑走路が伸び、ターミナルビルも拡張されるなど、大型機の利用と海外便の運航に期待が持たれる。
道内でも空の輸送の拠点としての重要度は増している。また、朝日ケ丘展望台やメルヘンの丘など、景観の美しさを積極的に観光資源に活用している。
小清水町 ゆりの花と熱気球のあがる町
小清水町は一口に言って、農業の町である。総人口約6,000人のうち約3分の1が農業に従事している。
ほぼ長方形の町は、国有林におおわれた南部の山岳地帯から北に向かってゆっくりと傾斜しオホーツク海に達する。この波状傾斜地の地味が良いと言われ、広大な畑作地帯を形成している。
近年は農業の他に、観光事業も活発に行われ、小清水原生花園をはじめ、リリーパーク、藻琴山のハイランド小清水725など年間の観光客の入り込みが約80万人にまで増加している。また、オホーツクの村などに見られる、ナショナルトラスト運動や町民の畑作と連動した農業体験など体験型観光への取り組みも盛んになっている。
2005年にはトーフツ湖のラムサール条約締結が決まり、自然を楽しむという視点から、ますます重要な観光のエリアとして期待されている。
清里町 花と緑と交流のまち
清里町は世界遺産に指定された知床半島の付け根に位置し、日本百名山のひとつである斜里岳や摩周湖などに囲まれ、町内を清流・斜里川が流れる自然豊かな人口約五千人の街である。
1943年(昭和18)に斜里町と小清水町の一部から分かれて開村した上斜里村が、1955年(昭和30)の町制の施行によって清里町となった。公募により決定された町名には「清らかな里」という意味と、小清水町と斜里町から一文字ずつを譲り受け、二つの街から分村して街が誕生した歴史が刻み込まれている。
この街の主幹産業は農業でじゃがいも、麦、ビートなどを栽培する畑作が中心。一戸の農家が広大な畑を耕作する大規模農業が特徴だ。反面、長きに渡って清里町の経済を支えてきた林業は木材の需要の低下、外材との価格差などから生産活動が低迷する傾向にある。
斜里町 世界自然遺産・知床のまち
斜里町は、人口14,000人の小さな町である。シャリと言う名前もアイヌ語の「シャリsari 葦原」の意味から来ている。現在広がっている広大な斜里平野も大昔は海だったという。江戸時代から斜里は注目されていた地域であることが様々な文献に残されている。
その注目された理由は、日本の近代化に欠かせない資源に寄るところが大きかった。明治、大正時代は木材景気。木材がなくなった平野では澱粉の生産、昭和になると知床半島の硫黄の産出。この街の発展は日本の近代化に沿っての発展であったと思う。
戦後の高度経済成長の恩恵として斜里からウトロの道路が開通した頃から斜里の大きな産業に加わることとなる「観光」がクローズアップされた。年間170万人の観光客を受け入れるのは斜里町ウトロである。ウトロの人口は斜里町全体の一割。
2005年(平成17)7月に世界自然遺産に知床が指定されてからはさらに注目が高まり、さらに多くの人が訪れる地域となっている。